経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発/理念の時代を生きる138号

脳力開発138号・国際社会は自国の利益のみを追求する

ヨーロッパの崩壊

今、世界は米国と中国の貿易戦争、米国と北朝鮮の核の廃棄交渉、英国のEUからの離脱、欧州もファーウエェイへの排除、習近平の一帯一路の蹉跌の問題と話題に溢れている。

また、韓国の現政権の日本に対しての反日の問題も著しい。これらの問題についてのメディアの論評は木を見て森を見ずの類が多いが、歴史的、長期的に見る必要がある。一方、国内的には貿易戦争における対中国への輸出の減少が予測されると経済界もかまびすしい。

これらやや政治的な問題をついては、いままで、一線をおいていた。今回改めて、思考方法の原則に戻って考えてみる事する。

フランスのデモの問題

フランスではガソリン値上げの問題に端を発して、つい先日までデモが頻発した。これに対してマクロン政権は妥協して、対話を続けデモ収束の流れにあると思ってたら、休暇先スキー場から急遽返ってこなくてはならなくなった。しかも今回はフランスで一番の繁華街で観光客が最も楽しんでいるカフェやブルガリなどのブランド店が、デモの暴徒によって放火、略奪されたということだ。文化都市と標榜されたパリはもはや暴徒の町。危険で訪れ気も失せてくる。

チリや南米でかつて災害があったとき、一番恐れるのは治安問題だ。そして略奪がおきることだ。数年前、年下の友人で日本電産の関連会社の自動車関係の社長を任されていた友人を訪ねたとき、彼からこういわれた。「黒田さん、町を歩いていて見知らぬ人が近づいて来たら、逃げてください」と。何を言うのか「かつて訪ねたフランスは文化の香りがしたある意味で憧れ町だよ」と答えると、今は違うのです。特に肌の色が違う人は注意してください」と言われた。

そしてとりわけ「女性は働かない、権利ばかり主張して経営者としては、たまったものではない」と。滞在中フランスの駅裏は糞尿はたれ流し、地下鉄の通路は尿の悪臭にへきへきした。とりわけ乗り継ぎの飛行機でチケット交換で並んでいると十二時になった途端、目の前でお客を無視して席をたつ女性に腹が立って、思わず声を荒らげたら男性のスタッフが飛んできて対応してくれた。モネの美術館ジュベルニーを訪ねたときも体験した。

帰国して、ヨーロッパは崩壊するだろうと、論拠はヨーロッパ白人の植民地主義の弊害が長い時間をかけて表面化してきた問題だ。そこに人道主義を掲げ人種差別への対応が重なっている。とこの森のフォーチャに書いたら、かつてイギリスに住んでいた友人から、暴論だとクレームが入った。

いま、フランスのデモを見るに、おそらく暴徒は移民か不法滞在者かであろうと、やや好意的に書いておくが、フランス人も実に愚かだ。権利だけを主張する国民に成り下がった。未だ、デモでもすれば、国は国民に手厚い対当をしてくれるだろうという甘え心、依存心から脱却していない。

むしろより過剰な支援策を暴力によって獲得しょうという乞食根性から抜け出していない。ますます酷くなっている。こんな国に将来がある訳がない。極端なはなし略奪によって成立してフランス革命と自由、平等、博愛という理想主義を目さしてできた制度、民主主義が問い直されている。

この問題の解決には、手厚い対応策ではない。事実を国民も認識し、政府も困難でもこの現実を知らしめことから始めなくてはならない。しかし、これも甘やかされた大衆は拒否するだろう。だからヨーロッパは衰退していくというのが私の予想だ。最初はフランスか?

EUはどこにいくか

ドイツメルケル首相は端的にいうとシリア難民によって足を救われた。何度か書いたが、なぜシリア難民を大量に許可したのか?ドイツのEUにおける優位性は経済的に一番恩恵を被ってきたことによる。

第一次大戦、第二次大戦の後、ヨーロッパは全ての国が疲弊し、戦勝国も結局、アジアの植民地から撤退した。日本の敗戦後、連合国は一つとして国力を豊かにしたき国はない。そして覇権はアメリカに移った。イギリスはインドを始め世界中から撤退した。フランスもオラダもしかり。

その愚から一九九三年フランスとドイツはヨーロッパの国同士の無駄な争いをやめようとしてEC欧州共同体を設立させ、EUに繋がっていく。設立以来二十六年目に入った。ここでEUはイギリスの離脱問題で揉めに揉めている。離脱延期がとり沙汰されているが部外者(私達)からみるとイギリス人も賢明だとは思えない。

一体どうしたいか?根本的にはイギリスに優位に進めたいということが本心だからイギリスが自自国の利益・欲を主張し続ける限りこの問題は長引く。しかし、メイ首相は女性ながらよく問題解決取り組んでいるもだと感心する。

チャーチル首相は「民主主義は、最悪の政治と言える。これまで試みられてきた民主主義以外の全ての政治体制を除けば」といったそうだが、真意は民主主義が最善とはいっていない。今イギリスでもこの民主主義の下で、呻吟している。

民主主義とは何か

手元に「自由と民主主義をもうやめよう」という佐伯啓思氏著書がある。骨子は以下のとおり。アメリカの金融破錠は、自由と民主主義の名の下に個人の飽くなき欲望を肯定し、グローバル化を強引に主導してきたアメリカ的価値の破錠でもあった。それに追随し、経済だけでなく政治、人心のあらゆる局面で崩壊の危機に瀕する日本。もはやアメリカとの決別なくして再生はありえない。今こそ、「私」ではなく「義」を、「覇権」ではなく「和」を是とする日本的価値を、精神の核に据え直すときなのだ。

私は今年になって、米中の問題を取り上げるに際し、ペンス副大統領の宣言をとりあげ、世界は覇道国同士の争いの中にあると書いてきた。歴史的にみて西洋は自国の利益、個人の利益追求を第一とする集団だ。従って民主主義という体制を採用したが、「自国最優先」から抜け出すことは到底できない。とすれば、イギリスも都合よく自国にとって有利に進めることはできない。最終的に、イギリス国民がこの現実を認識して、予想通りいかなくても、妥協せざるを得ない。それが出来るかどうかだが、愚かな論争をまだまだ続けるであろう。

韓国の愚かさ

私の主催する理念実践会に韓国出身の李さんという女性が参加している。ともに学びはじめてあしかけ五年近くなる。聡明な女性だ。彼女は韓国の大学を出て、就職体験を経て筑波大学の大学院に留学した。そして「そ・ら・ら」という茨城空港が立ち上がったとき「道の駅」というより「空の駅」的な地域開発に関わった。大学院では「デザイン」を学び、「そ・ら・ら」に職をえた。広報宣伝企画リーダーとして日本人スタッフを束ねてよくやっていたが、民族的な違い(あるべき論を振り回す韓国的進め方と論争や揉めることを嫌がる日本的なやり方)から、若干軋轢もあったが、上司や私のアドバイスも理解してよく解決してきた。いまでは日本的な柔軟性と韓国的な歯切れのよさを身につけた才女だ。

昨年、私の進化経営学院に長年学んでいるS氏と結婚した。夏には子供さんに恵まれる予定の本当に賢い尊敬すべき女性だ。同期で学ぶ若手経営者も一目も二目もおいている。

日本の歴史も、私が選び使ったテキスト内容もよく理解して、昭和天皇に関しても日本人以上理解している。その彼女がいることもあって、授業の中では韓国問題にはあまり触れないことにしてきた。

先日韓国の就職事情について彼女に聞いてみたが、徹底した受験競争と一流志向(大企業志向)が韓国の若い世代では浸透して、日本企業へ就職なども、中小企業は敬遠するらしい。柔軟性はないらしい。現実をよく認識していないらしい。

韓国の政治

文在寅は、韓国の政治家、弁護士、市民活動家。第19代大統領。北朝鮮からの避難民の息子として生まれる。弁護士として市民運動や人権運動に参加した後、盧武鉉政権で大統領側近として活躍した。(ウィキペディア)

 韓国は一体どうなっているのかと聞いたら、冬季オリンピックの時の、自国のボランティアへの対応に立腹していた。韓国は常軌を逸している。彼女いわく、一度ガラガラポンする手もあるなどと、すこし投げやりだった。

韓国に対して批判本は無数に出版されている。私も数十冊は読んだ。歴史問題から始まって、その数しれず。しかし、日本が韓国に対して、国として政治的な対応をしても、今までの政権は末期になると必ず反日の旗を掲げる。なぜ、韓国に対して脚色、虚偽、約束違反に毅然として対応しないのか?

いい加減な国とは国交断絶、付き合わないほうがいいのではないか?今度の政権は最初から反日であり、国家として取り決めたことまで蒸し返す。しかし、例えばかつて超党派の日韓議員連盟などが一定の役割を果たしてきたが、今では交渉能力はない。韓国進出の企業もあるだろうが、そのことが、日本が韓国に対して強く出れないことに繋がっている。

両方いいことはないというのが、正に当然である。これも今、イギリスがEUから離脱するかしないか、揉めていることと根本は同じ問題である。(韓国に関してはまた改めて記すことにする)

理念の時代を生きる138号

その一・サントリー創業物語・琥珀の夢・小説鳥井信次郎

 伊集院静の小説を久しぶりに楽しみました。新刊では購入しませんでしたが、中古で求めて手元に置いていました。仕事が一段落して上下巻を手にとり一挙に読みました。若い人は御存じないかも知れませんが、サントリーの創業者の物語です。

今から五〇年近く前、大学を卒業してあれこれ迷い、就職するとしたらサントリーに入社したいと思ったときもありました。理由は、小説家開高健がサントリー出身だったことが理由です。単純な理由。サントリーはそれでも広告関係や宣伝に特長がありで「自由な雰囲気」が漂っていました。文化の香りがしていました。

私もひとかどの文学に憧れ、訳のわからない現代詩などに入れ込んでいました。在学中自費出版ですが、二冊の詩集を出したものです。

大学入社当時は、入学祝いで先輩にサントリーレッドをストレートで飲まされ、悪酔いしたことを覚えていますが、「トリスを飲んでハワイへ行こう」と壽屋が昭和三十六年より実施したキャンペーンがあって、山口瞳が担当したキャッチコピーは柳原良平のイラストと共に当時の流行語でした。

松下幸之助との邂逅

読み始めて序章でまだ少年だった「松下幸之助」と鳥井信次郎との出会いが描かれています。幸之助が五代自転車屋の丁稚として当時、ハイカラな自転車ピアス号を修理して寿屋洋酒店に届けるところから始まります。その時の始めての出会いが印象的に描かれています。

その出逢いから七十四年ご昭和五十六年(一九八一年)信次郎没後十九年後、大阪築港のサントリー洋酒プラントの中に信次郎の銅像が完成しその除幕式に、当時殆ど公の席に顔を出すことかなかった八十七歳を迎えた松下幸之助が出席のすることになったのです。

当時のサントリーの社長は佐治敬三でした。そして事前の打ち合わせで幸之助が望んでスピーチをしたいと申し出があったわけです。そして参加者が松下幸之助を見上げる中で遠い昔を懐かしむように語り始めたわけです。和歌山から大阪の船場に出て、ふたつめの店へ丁稚奉公にでていた五代自転車店の話を訥々とするわけです。そして幸之助に「坊、気張るんやで」と励まされた当時を語り、「今日の銅像の見事な出来ばえと、あの空に赤玉ポートワインをかかげた姿は、私が丁稚の時代に見た信次郎さんそのものです」と語るのです。

経営の神様、世界でトップの家電製品の企業を築き上げた松下幸之助が、生涯その恩を忘れず、商いの師はした鳥井信次郎の物語が始まります。

陰徳・森信三先生との縁

私が今回取り上げるには理由があります。実は私が今も「人生二度なし」の碑を進化経営経営学院の玄関に据えてある「森信三」先生との縁です。森信三先生は一八九六年(明治二十九年)に生まれ一九九二年九六歳で亡くなられました。その森先生の人生も必ずしも順風満帆の人生ではありませんでした。森信三先生が広島高等師範学校に進学するときにある篤志家の支援をうけたと聞いたことがあります。その篤志家については森先生に関する勉強をしているうちに、その篤志家はサントリーの創業者鳥井信次郎氏(明治十二年生)ではなかったかと耳にした事がありました。

明治時代には将来ある優秀な学生たちに対して成功した経営者や代々続いた名家が学費の援助をするという篤志家がいたという時代でした。

この本を読みながら、下巻の最期の方に記してありました。信次郎は三十数年間私財を投じて苦学生に奨学金を与えていたと。自分の名前はいっさい出さず専門学校、大学の教授にお願いしていた。二千人以上の学生がその恩恵を受け、多くの学者、研究者を輩出した。後に、世界的にも有名になった化学者が後年お礼に伺うと信次郎は頑なに援助した事を否定したと。

読書中、妻に森信三先生の奨学金は鳥井信次郎が出したに違いないと話していましたが、読了後、あれこれ調べてみると、森信三先生を支援していたのはやはり鳥井信次郎氏でありました。森信三先生の生涯の中にハッキリと記してありました。これも鳥井信次郎の母親が幼少の頃から教え、しつけていた信心と陰徳の忠実なる実践を生涯つづけていたという事です。

企業経営の志=理念

信次郎は近江の人を介して薬種商店への丁稚奉公から始まります。小西儀助商店の主人(彦根で学んだ人)との出逢いが後の信次郎の仕事に対しての取り込み姿勢の原点になります。創業者として経営にたいする姿勢を身につけていきます。その後、壽屋からサントリーに至る長い歴史がいきいきと描かれています。鳥井信次郎もそして後に続く佐治敬三、鳥井信一郎、佐治信忠と続く系譜の中に脈々と引き継がれている創業者の志、使命感、倫理観、仕事観には目を瞠るものがあります。そのことを十分すぎるほど確認できる小説でした。是非、経営者の人には読んでいただきたい。

その二・最期の官選沖縄県知事・島田叡氏

作家門田隆将の東大野球部「百年」の奮戦、「敗れても敗れても」が出版された二〇一八年五月に読んだ。彼とは日本李登輝の会で名刺交換したが爽やかな作家だ。以前から彼の作品は読んでいた。日本の近代史を深くえぐり出し人間の生き方を追求する腹の据わった作家だ。この作品を読んで、最期の沖縄県知事・島田叡氏の事を知った。こういう人があの沖縄の戦いの中に生きていたのかと思った。日本人として人間として正に志・使命に生きた島田叡知事に接し、私もかくありたいと思う。

戦後史と沖縄問題

また、私が戦後史の研究をしている。その一環として昨年は戦後沖縄史を研究し始めている。戦後沖縄返還後の政治の混迷を見るにつけ依存心を払拭できない沖縄の政財界と左翼リベラルの活動、と同時に日本政府の手厚い補助が沖縄の人たちの自立を妨げている現実に行き詰まりを感じている。島田叡知事の生き方を、多くの人に知ってもらいたいと思う。少しでもこの事実を伝えたい。今の沖縄県民にも読んでもらいたい。

摩文仁の丘の島守の碑

一月沖縄を訪ねたとき、念願であった島田叡あきら氏が祀られている摩文仁の丘にある島守の塔を訪ねた。今から七十四年前(昭和二十年)最期の官選沖縄知事として赴任された島田叡氏は信頼する沖縄県賢察部長(現在の県警本部長)の荒井退造氏とともに摩文仁の激戦区で消息を絶った。二人は、数々の苦難を克服して台湾や沖縄北部への沖縄県民の疎開を押し進め、二十万人におよぶ県民の命を救った。

東大以後の略歴

 島田は神戸二中から三校をへて東大法学部に進んだ。そして東京大学野球部に入部したのが大正十一年のことである。東大三年目退部して行政官試験を受ける予定だったが、先生の懇願を受け大正十四年春大学卒業のとき山梨県の属官からスタートすることになる。しかし高文試験を受け、一年遅れて内務省にはいり四十歳の時大阪府の内政部長という要職につく。

昭和十九年サイパン島が玉砕し、大本営が「本土防衛」のために不可欠のラインとしていた絶対国防圏が突破され、これによって日本本土が米空軍の空襲下に置かれたとき大阪府の実質ナンバー・ツーであった内政部長の島田は学童疎開や防火体制の強化、近づく空襲への対策に奔走する毎日を過ごしていた。

沖縄県知事就任の要請

昭和二十年一月十一日の朝、隣家の大阪府知事・池田清に呼び出された。隣家の知事公舎に出向くと池田は背広姿で応接室座っていた。

池田は内務省で十二期も先輩にあたり警視総監も経験していた。そしてこう切り出した。

「島田君、君に本省から知事就任の要請が来ている」当時,知事職は住民の選挙ではなく、内務省人事によって行われる「官選」であった。「はい」と島田は返事した。池田は島田の背筋が伸びたことを確認すると、こうた言葉をつづけた。

「それが、沖縄県なんだよ・・・・。君に沖縄県の知事になって欲しいと言うんだよ」池田は、島田の表情を見ながら、そう告げた。沖縄県・・・。それは他の都道府県とは全く違う意味をもつ名前だ。東シナ海に浮かぶ島々からなる沖縄県には、刻々と米軍の攻撃が迫っていることを、もちろん島田を知っている。

知事として赴任することが、そのまま「死」を意味することを島田は瞬時に悟った。もちろん本省からの要請を伝達する役目を背負った池田知事にも、そのことは十分わかっている。「わかりました。お引き受けします」島田は、何事もなかったような表情で、そう答えた。

驚いたのは、池田である。本省からの要請であったとしても辞退する手もある。少なくとも即答で花苦、家族とじっくり相談したうえで解答すべきだと思っていた。「島田君。ご家族と相談してはどうだろうか一先ず奥さんと話し合ってくれ。君には年老いたご母堂もおられる。それからでも返事は遅くはないではないか」

しかし、島田の返答は予想外のものだった。「知事。私が断れば、誰かが代わりに行くことになります。そればできません。私が行かなければなりません」島田とそう言いきった。

日頃の仕事ぶりから自分に与えられた職務を守り抜く信念と責任感に満ちていた。少なくとも島田が「死」を恐れない男であることに、池田は心を打たれた。

戦後評論家中野好夫氏の夫人へのインタビュー

昭和三十一年発行の文藝春秋別冊「最期の沖縄県知事 人間・島田叡氏の追憶」と題して以下の一文を寄せられている。

私たちは何偽悪いこともしないのに、沖縄にやられるなんて、そんな内務省なら、いっそやめてしまいましょう。とも嘆いたそうだ。いわれない女のグチだなどと思ってはいけない。人間の自然だと私は思う。自然なるが故に美しいとさえ思う。作り上げられた烈婦伝などは真平ごめんだからである。だが、叡さんは答えたそうである。どうしても誰かが行かなければならないとすれば、云われた俺が断る手はないではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、俺はもう卑怯者として外も歩けなくなる、とも云ったという。

沖縄大空襲

昭和十九年十月十日沖縄大空襲述べ千四百機による大空襲が敢行された。この波状爆弾は五百四十一トンに昇り、最も被害が大きかった那覇辞では市内の九割が消失し、死者は二百五十五名におよんだ。当時の泉守紀知事は、知事公舎の防空壕に籠もりきりとなり、率先して職員への陣頭指揮にあたる姿はついに見られなかった。空襲の深夜、泉知事は那覇からの県庁の移転を決断している。県の首脳が灰塵に帰した那覇市を捨て疎開するという行為は、県の職員たちにはかり知れない失望をもたらした。泉知事は在任中九度の県外出張を行っている。出張の日数は在任一年半の内の百七十日余におよんだ。

島田叡知事の赴任

昭和二十一年一月末赴任、島田知事は赴任の挨拶の後、最初の命令が「分散している県の行政をもとの庁舎に再統一する」であった。多くの職員が勇気を得た。最も感激したのが、警察部長荒井退造であった。荒井は知事不在のとき県民のための食料確保、疎開の段取りなど山のような仕事に立ち向かっていた。

島田は赴任後、精力的に動いた。制空権を失いつつあった中で、自ら台湾に飛び台湾米を四百五十トンの契約をまとめ県民を台湾へそして北部国領地区へ疎開の具体的な計画を実施している。どんなことをしても「県民の命を守る」という島田の固い信念はおよそ二十万人という数字に現れている。米軍が沖縄本島に上陸する四月一日までのわずか二カ月で島田が行った県政は戦後も語り種となった。

島田知事は「生きろ」と言った

島田は、沖縄県の各市町村をできるかぎり巡回した。住民たばこの増配や酒の増配を願い出て各署長、局長は県のトップ自らの懇請に感激した。禁止されていた農村の村芝居も復活させた。中部地区の貧しい村にも立ち寄り農民と知事が同じ酒を酌み交わすという信じられない奇跡的な出来事が起こった。島田は、四月二十七日、最期の沖縄県市長村会でも、あくまで「住民保護」を最優先するよう最期の命令を出している。首里陥落直前の五月二十四日、知事の指揮下にあった「後方指導挺身隊」に対して「組織を細分化して、あくまでも犠牲を少なくして、それぞれが住民保護に邁進せよ」と命令を出している。

摩文仁に消えた命

島田の最期については、当時毎日新聞那覇支局長で報道班員として唯一、生き残った野村勇三は以下のように証言している。「自分は軍司令官と最期の行動をとりたい」六月のある日、野村は島田からそんな連絡を受けた。摩文仁の司令部へ案内してほしいという頼みだった。島田と牛島満・第三十二軍司令官は、上海時代からのお顔見知りであった。

「沖縄本島を脱出して戦の実相を本土に報告せよ」牛島司令官からその命令を受けた報道班員たちは、六月十九日海上班と陸上班の二班に別れて脱出を図っている。そのなかで生き残ったのは野村一人だった。

脱出する日の昼、野村は島田知事を訪ねた。「しっかり頑張ってください。成功を祈ります」島田は野村の手を握りそう励ました。「知事さんは、これからどうされますか」野村の言葉に「軍と最期をともにします」そういってこう付け加えた。「見苦しい身体を残し卓ありません。遠い海の底へいきますかな」そういって笑った。その言葉どおり、島田と荒井の遺体はついに見つからなかった。自らの身体の「始末」を完全につけて、二人はこの世から去った。

その三・N社59期経営計画発表会

構造大改革の三年目二〇一九年三月のスタート

前期を振り返りながら本稿書くことにする。二〇一八年四月からN社で構造大改革が二期目に移った。製造にも営業にも自立連帯企業への脱皮が始まった。

  • 二〇一七年二年前、事業部の営業部門を統合した岡山N社は、昨年二〇一八年で一変、実に見事な家族的統合と業績を残した。リーダーと全社員、二年かかったが、すばらしい人間のエネルギーを目の当たりにした。どうして彼らか決意し自ら行動を変えたのか?

情況を変えていく原動力は他人や環境にはない。自分自身にしかない。原動力は自分自身だ。このことに気づき行動を変えた。ここまでくれば、未来は拓ける。困難を愉しみなが現実に立ち向かっていける。立ち向かえば仕事は面白くなる。改めて彼らの行動力、実力に驚くとともに、力を引き出したリーダーの熱意、環境づくり、に感心した。

  • 幸福は最初は不幸の形をして現れる」と感想を述べた広島の女性社長は二期連続で黒字の業績をあげ、勢いに乗ってきた。事業継承して大赤字の会社を一~二年で完済できる段階まで回復させた。事業継続か解散かの瀬戸際に追い込まれたとき、十数年経営してきた会社の危機に見舞われた。解散を選択すれは、当然負債は前社長とともに応分に負担しなくてはならない。

彼女は決意し、事業継続を選択した。そして二〇一七年・二〇一八年と二期連続黒字の業績で、完済目処をたてた。こうなると仕事は面白くなる。その彼女の言葉が、前述の言葉。私がこの紙面で二年前に紹介した。この言葉は隠岐の聖者と呼ばれた永海佐一郎博士の言葉である。

隠岐の西郷町に生まれ、漁師の父を海でなくし、母に育てられました。その後、いろいろな縁がかさなり東京工業大学教授、名誉教授などを歴任され、退官後「すべてのことは、母に代えられない」と言う思いから隠岐の故郷に帰郷後も奥様を助手にして化学の研究を続けるかたわら、永海賞の設置、道徳高揚・勉学奨励の講演などを行われ青少年の育成に貢献された。その永海博士が自分の体験を通じて「幸福は最初は不幸の形をして現れる」と言われた。

世の中は,都合のよい環境がいつも与えられるものではない。彼女の発奮も不都合な環境が原点になった。不幸に見えた厳しい環境が幸いした。

  • 新事業(草むしり)を軌道にのせたトップの決意

 九年前たった一人でスタートした事業。社長の思いは高齢化がすすむ時代をにらんで、終身就業事業を企図した。誰もが思いつかない事業の芽だった。三年前には事業構造が整えられた。そして一昨年(七年目)、昨年(八年目)と驚くべき伸展をさせ、今期(九年目)粗利・MQ一億の計画まで到達した。その事業化の過程で、関わる若手の著しい変化成長を目の当たりにした。

  • 生産の日本回帰・中国からの脱皮

石材関係に関して日本が構造的に落ちいっていた中国依存体質からの自立は実は日本への生産体制回帰だと言うことだ。その点に着目して新しい動きをはじめた。しかし、ここ十数年の習慣からの自社生産への切り換えは容易ではない。

社長は生産地として地域貢献を掲げ、衰退していく地域の復興を掲げ、先頭に立って進める決意をした。可能な限り加速していただきたい。ここでも新規事業はひとえに社長の決心とリーダーシップにかかっている。来年報告を楽しみにしている。(悦司)


脳力開発/理念の時代を生きる137号

脳力開発137号世界から沖縄を見る

私が沖縄問題取り上げだしてから一年がたった。一年後、二〇一九年も沖縄に足を運んだ。この一年も沖縄にとっては激動の時代だった。少し一年を振り返りながら再び沖縄の代表される現状を書いてみたい。私は昨年以下の指摘をしてから、沖縄問題には筆を止めている。

沖縄問題番外編・翁長知事逝去にともなう雑感(31日)

 翁長知事が亡くなった。沖縄県南部の糸満市内にある摩文仁丘には黎明の塔や健児の塔など各県の慰霊碑や慰霊塔が建立され、平和祈念公園となっている。6月23日慰霊祭が執り行われた。この時、その会場で翁長さん顔をみた私の友人は、闘病後のやつれた姿に愕然としたと一報してくれた。新聞の写真をみても険悪な顔で、安倍総理を見つめていた。顔の相が悪い。人間の思いは顔に出る。その後、逝去され今、後継者選出でオール野党は多忙の中にある。

■翁長知事の遺言テープ(?)で指名された自由党・玉城氏

その後のニュースによると苦渋の決断で、玉城氏は立候補をするということだ。勿論、野党共闘だ。立憲民主党も支援すると報じていた。辺野古地埋め立て撤回を旗印にしての弔い合戦だという意向が強い。本土復帰(1972年・昭和47年)以来、政府と対立して46年経った。簡明に言うと沖縄は共産党、社民(旧社会党)、日教組、左翼系労働組合、そしていまだ残っている琉球大学の左翼大学教授たちに支配されてきた。換言すれば彼等は実は中国共産党のしたたかな影響を受け続けてきいる。

反米、反政府ということは、反資本主義だった中国、ソ連の共産主義の夢であった。その中国がソ連と対立したとき、中国はソ連に対して反社会主義だといって非難した。その後ソ連、共産主義の東欧諸国の崩壊を迎えた。

オール沖縄の中心は実は共産党である

共産党は護憲派を装っている。改憲派の代表を自民党とすれば護憲派の代表はミニ政党に落ちぶれた社民党である。旧五五体制の当時の二大政党であったが今や対立政党とみずから言うのもおこがましい。にもかかわらず世の中には護憲派と称して大きな顔をしている社民党の連中が多い。その中身は、大学教員・弁護士・組合活動家・ジャーナリスト等などインテリが多い。こういう連中を動かしているのは共産党である。(マスコミ偽善者列伝・加地伸行著)

オール沖縄・護憲派の真意

 共産党こそ現日本国憲法を否定し、改憲を目指している。改憲(現行憲法反対)を堂々と唱えた過去がある。その最大の理由は「天皇を否定、皇室を否定する」ことが、共産党の使命だからである。しかし、日本において天皇、皇室の廃止などおぼつかない。だからオール沖縄などと偽って、内実は中国、韓国、北朝鮮に媚をうり、沖縄から米軍を撤退させることが使命になっている。辺野古移設反対の真意はここにある。社民党やその同調者の真意はここにある。

●今までもこの古い過去の構図が続くであろうか?沖縄県民にも確かに問題はある。しかし、次第に学習してきた県民は、おそらく玉城氏を選ばないであろうと私はこの時点では予測している。(2018年8月30日)

知事選挙後の沖縄

 私が書いたようには沖縄知事選挙は進まなかった。というよりも全く逆の結果になった。若い人たちが玉城氏に投票したと言われる。その後の玉城知事は翁長さんの弔い合戦のストーリーどおり展開た。また、二月二十四日には辺野古移転県民投票をすることに決定している。これにもいろいろ予想はあるが、オール沖縄は失敗する可能性を微塵も考えずに実施されるだろう。

さて、一年ぶりに沖縄を訪ねタクシーで市内への行き帰り、翁長さんが立てた三億円と言われる「龍柱」を見ながら運転手の人と話して、いかがです龍柱の効果は?と聞いてみたが鼻の先で笑い、全くの評価をしていない。そして福州園に話を振ると、久米村にある福州園は那覇市市制七〇周年福州との友好都市締結一〇周年の記念として一九九二年に開園した中国式庭園で、設計から施工まで福州市の職人により、福州市の資材を使用して建設された。お金はすべて沖縄が負担したと。

琉球と中国との関係は歴史的に遡り調べてきたが、今でも沖縄では歴代の知事は明の時代、亡命してきた久米三十六姓の末裔であることを誇りに思っているようだ。

●中国の長期的かつ緻密、周到なプロパガンダ

話が飛躍するようだが、中国のプロパガンダについては米国トランプ政権が共和党民主党の党派を越えて中国に対して覇権競争に全力をあげて対抗を強化している。覇権国は前回のペンス副大統領の対中政策は、メディアやテレビのコメンテーターがいろいろ話していることは全く、木を見て森を見ずの類、部分の話だ。

フアーウエィに関するカナダでの副会長逮捕なども、覇権国アメリカが周到に準備した戦術の一環だ。ペンス副大統領の全文A4で13ページを年初の経営計画熟考会で取り上げて和談した。その中にペンス副大統領はアメリカの中国に対しての要求事項を詳細に表明している。

●中国プロパガンダの米国での実態

中国共産党は米国企業(中国に進出している合弁会社)、映画会社(ハリウッド映画)、大学(米国内九〇余に及ぶ孔子学院・日本でも立命館、早稲田、桜美林二〇余、世界で四〇〇)シンクタンク、学者、ジャーナリスト、地方、州、連邦当局者に見返りの報酬を与え、支配している。

中間選挙にも介入し、中国は米国の州や地方政府、政府関係者を標的にして連邦政府と地方政府の間のあらゆるレベルの政策を利用しょうとしている。より多くの学者が学問の自由を守り、より多くの大学やシンクタンクが「全ての金には要求が伴うことを認識し、楽に手に入る中国の金を拒絶する勇気を奮い起こしてもらいたい」と進言している。また、中国は米地元紙への有害PR記事の掲載をしている。日本では、年間六〇〇万部の中国宣伝記事を毎日新聞の体裁をとってプロバガンダ記事を配っている。(出典・英国ガーディアン)

覇権国中国の監視社会の恐怖

ペンス副大統領の演説の中に中国の監視社会(ジョージ・オウエル方式)という事例を挙げている。政府が真実を隠し大衆を「ウソ」で支配するSF小説が現実になっている。私も読んだ。小説と友人がもってきてくれた漫画でも読んだ。このSF小説が現実味を帯びてくる。小説を読みながら、国民監視システムがほぼ完成しているという宮崎正弘氏の情報も一層真実味を帯びてくる。二〇一八年顔認証カメラ五七〇〇万台出荷のうち60%が中国であるという数字も、AI技術でも突出した技術力と監視社会を暗示させる。

沖縄は中国の影響が更に強まっている

 話を最初に戻すと、沖縄のみならず日本全体が中国のプロパガンダに犯されているという視点が浮かび上がってくる。覇権国(中国・米国)はあらゆる権謀術数を駆使して、界に向かって覇道の目的である「一生他滅」「自盛他衰」のために様々な手を使ってくる。一帯一路についても同じことが言えている。

日本人は覇権国から見れば単純でややもすれば純粋な、騙されやすい民族だとも言える。島国に囲まれて、異民族の苛酷な闘争に巻きこれまたことの少ない民族であるが故に、かつての連合国の東京裁判やGHQの戦後の押しつけに対しても、また最近の中国、韓国の傍若無人な振る舞いにも大した反応もしないと見られて、嘗められているという。次回、この視点から考えてみたい。

理念の時代を生きる137号

石村嘉成氏版画作品展・高梁市美術博物館

 郷里津山に帰る途中、同行する友人にお願いして高梁市に寄ってもらった。備中松山城で名の知れた高梁市で、石村嘉成さんの作品展が開催されていることを教えてもらっていた。紹介者はリブドウ・コーポレーションに勤務されていた石川徳広さんです。彼が薦めて創業五〇周年記念の社内リーフレットの表紙として石村さんの作品が使われた。

自立と制作

石村さんは一九九四年新居浜市に生まれた。二歳のとき検診で自閉症による発達障害と診断された。お母さんは大きくなっても人のお世話になって生き行かなくてはならない息子に「療育」(特性による生きにくさを改善し、社会的自立や制約のない生活ができるよう、医療や専門器官と連携して、必要トレーニングを施していくこというに精根を込められた。そのお母さんを十一歳のときを亡くしました

彼の作品の中で生き物が描かれている親子、母と子の作品がおおい。作品を見ていただければわかるように、生きる力に溢れている。色使い、原色を見事に使われた作品はエネルギーが溢れている。言葉では到底表現もできない。今、彼の作品はいろいろな人たちとの「コラボ」が生まれ、日本はもとより世界でも評価されている。是非機会をつくって見ていただきたい。

寺澤 繁氏・享年六十歳二〇一九年一月

■出逢いから今日まで

一九九一年私が北海道浦河を訪ね始めたのが一九九一年七~八月のころからだ。今では理念探究の同志「小山直氏」が生まれた地だ。そのころMG/MT/脳力開発を通じて企業改革に夢中だったの夏、妻善子と旭川に住んでいた藤野さん(当時七十歳)、北見に住んでいたKさんと四人で、一週間ほどかけて札幌から、赤平、愛別、旭川、北見、根室、鹿追、帯広、浦河を車で巡った。その間、四~五回地域の勉強会で講話と懇親会をしていた。その最後の地が浦河だった。

●べてるの家

浦河で精神障害者施設「べてるの家」を紹介してもらった。この地に住む小山直・祥子夫婦の熱心な支援活動で翌年、「べてるの家の本」が出版され私も縁あって寄稿した。以来、毎年近く浦河まで足を伸ばすようになった。べてるの家のメンバーほぼ全員が、天命舎に寄ってくれたこともあった。浦河に寄ると彼らを会い、食事をしばしばともにした。

寺澤さんはそのべてるの家経営する有限会社福祉ショップべてるで仕事をしていた。大工さんだった。会社にはグループホームで生活するメンバーは勿論、精神障害者やアルコール依存症の人達も働いていた。いつのころかは忘れたが、小山さんの経営する「マルセイ」でも並行し仕事をするようになった。

あれから二十七

振り返ればあれから、二十七年もたった。北海道は私には学生時代からの憧れの地であったこともあり、何度も北海道を訪ねることになる。第一に私の子供のころからの友人が北大の獣医学部に進学したことと、山岳部のリーダーだったことが最初の切っ掛けだが。その後定期的な帯広での脳力開発、そして理念探究会の開催と続いていった。

その浦河を訪れる度に、二~三日寺澤さんのアパートに泊めてもらうようになった。訪ねる時に夕食をともにし、遅い時間に彼のアパートで私は彼が用意してくれてお酒をちびちびのみながら、あれこれ話をしたものだ。彼が勿論「アルコール依存症」から脱出し、毎日アルコール研究会で依存症だった仲間たちとの集いに参加してアドバイスしていることは聞いていた。

自立が共通のテーマ

彼の実体験は人間の弱さと強さを物語る。そして彼の北海道はもとより時に日本各地のAA研究会に参加し続ける。「人間の自立」が私のテーマであったが、彼のテーマも「自立」依存症からの脱出だった。深く共感した。二人で過ごす時間は心の休まる時であった。夜毎に聞いた寺澤さん体験を、養成塾で勉強している若き経営者に聞いて貰いたいと思った。その後、アルコール依存症からの回復の実体験、各地でのAA研究会メンバーの自立への体験を茨城で語ってもらった。私の尊敬する実践した生の寺澤さんの生き方を。

その一・講演・アルコール依存症からの回復

プロローグ

 二〇〇七北海道浦河に住んでいる寺澤さんが、べてるの家のグループ有限会社福祉ショップべてるを退職して独立するという話を聞いた。会社から独立し、青天井になったのなら、是非天命舎を再訪して頂き、お話をゆっくりお聞きしたいと思った。

 一九九九年一度来て頂いたことがある。当時、寺澤さんのお話を「理念探究会」参加者に聞いてもらいたいと思ったからだ。講話の合間に、リビングのカウンターの下に、皿を仕舞う棚の扉を造って貰った。今も完成のサインがある。

今回は、次世代型経営者養成塾に参加しているジュニア、シニアのメンバーと理念探究会に参加しているメンバーに寺澤さんの体験談をお話して貰いたいと考え、一週間にわたる天命舎での長逗留になる。講話は三回。その間、関東各地のAA研究会に出かけなど自由にして頂ければと。

理念探究の旅

理念探究は自分の天命、使命を探究する旅でもある。ある人は、まさに身に降りかかる不幸や思いがけない生死に関わる出来事で瞬間的に、自分の天命を自覚する場合もある。またある人は、長年心の中に鬱々とうごめく何かに気づき、そして長い間掛かり、天命の周辺にまでたどり着くこともある。またある人は、様々な一人一人の人生経験を通じて宇宙の存在を意識し、そしてかなうものなら天命を探究したいという場合もある。

寺澤さんのアルコール依存症からの回復の過程は理念探究の過程に似ていると感じた。本質は「自分の内面と究極の対面をつづけることできるか」「自分の使命探究の自己との対話の深みを納得できるまで探究できるか」と言える。「何のための人生か」「何のための企業でありたいか」という問いかけをし、納得できる理念まで時間がかかろうが、これ以上はないと行き着くところまで探究しつづけることができるかどうかに掛かっている。

断酒の苦労

 アルコール依存症からの回復は、断酒のために様々な工夫も苦労もする。しかし、たとえ一〇年間断酒していても、もう大丈夫だとおもい、たった一杯のアルコールを飲んだ途端にまた元のアルコール依存症になってしまう。寺澤さんは三十六才に依存症から回復され以来今日まで(二〇年余)、仕事の後にほとんど毎日全国のアルコール依存症の人達とのミーティングに参加され、メンバーとともに自分の過去、現在を正直に語りつづける。そしてメンバーの人達の話しに耳を傾ける。

今度の滞在中も、私達にお話をして頂く度以外は全て東京を起点として各地に足を伸ばされた。仙台、立川、大宮、関東圏の様々な場所に、十数回のミーテイッグを重ねられた。

●人間の弱さと向きあう

 彼の話を聞くと、健常者といわれる私達がいかに甘い人間であるかを思い知らされる。多くの人間は自分を「依存人格」のままにしておいて生きている。都合の悪いときは全て他人や周りの所為にする。そして自分を常に正当化する。こういう表現はやや傲慢に聞こえるかもしれないが、寺澤さんはその人間のもつ真実を語る。しかし不思議とそれが、淡々とした身近な語り口のなかから、聞く人に自分の生活を省察させる。

自分はこうして仕事し暮らしているが本当に自分の天命と向き合おうとしているのだろうか。何故こんな弱い自分に言い訳をしつつ、上辺を取り繕い生きているのだろうか。表面からはみんなと同じように生きていて、人から見えない心の内部は「ためらい」や「「後ろめたさ」を感じながら生きているのだろうか。

経済中心・お金儲け中心で生きる普通の人々

 家族を守るためにお金は必要だと自分に言い聞かせて、「お金儲けは悪いことなのでしょうか」と人に問いかける。何のためにお金が必要なのか。そしてそのお金を何のために使うのかという問いかけはない。殆どの人達は経済中心の世相の中、何のために企業は存在するのか。その前提として私達は何のために生まれてきたのかと問いかけ省察する時をもたないで一生を終わるになる。

その問いかけを寺澤さんは私達にしてくれる。人間はたとえ強い願望をいだいたとしても決して、自分の願望に近づけることはできない。近づいていくには弱い自分を正直に自分で認識し、克服するためには具体的な行動が変わらなければならない。そして絶え間なく淡々とその遠い念いに向かって歩みつづけなくてはならない。その出発の条件が「依存人格からの脱出」決意・意志」だということを、アルコール依存症からの回復とその後の生き方から教えてくれる。

その二・二〇一五年・理念探究会講話

 二〇一五年理念探究会の六月初日、宿題であった李登輝の「指導者とは何か」のポイントレビューを皆で輪読和談した。この本は全てのリーダーにとって上に立つ人間としての備えるべき姿勢、思想を示唆している。その後、各参加者の近況報告を聞いた。

依存症の母親

アルコール依存症を抱えるさんの母親が来日している。彼女は今、近くのショップで韓国料理を提供しながら新たな生き方を模索している。彼女が日本に滞在中に北海道に住んでいる澤氏の話を皆さんにも聞いてもらいたいと思いついた。そして思いついたが吉日と研修の場から携帯で電話をした。七月か八月に茨城まで足を運んで理念探究会の人達に話してもらえないかという依頼の電話である。併せて、今アルコール依存症からの脱出に取り組んでいる韓国から来日している母娘の話をした。

超確率現象

 「今東京にきている、明日茨城に行ってもよい」との返事。なんという僥倖、正に超確率現象であり、仕組まれたかのような縁に驚きを隠せなかった。翌日八時過ぎには我が家に到着。そして九時から講話開始。彼女のお母さんも参加してくれた。Iさんは話を聞きながらパソコンで韓国語に変換し、お母さんはそれを見ながら講演の内容を理解される。

澤さんをお呼びする訳は「中途半端な取り組みは結局アルコール依存症からの脱出はできない。私たちも自己の探究を徹底的にしない限り理念探究にもたどり着かない」という点が共通しているからだ。以下、参加者の感想を掲載します。

感想 

澤さんの最初の印象は、気取ることなく自然体で優しそうな印象を受けました。完全に禁酒を始めてから二十八年になるとのことで継続する心の強さに感服しました。昔は、酒を飲むと人から良く見られたいとの思いから弱い自分を隠し強い自分を演じていた。結果、本当の自分の存在がなくなっていたのだと。人は多かれ少なかれ、他人からどう思われているのかを気にしてしまう生きものだと思います。

自分の中にも他人からの評価を無意識のうちに考えていたことがあったのだと気付きました。「他人との比較」ではなく「昨日の自分を超える」ということをもっと意識していこうと思いました。中略「逃げなければ必ず問題は解決する、逃げれば問題は大きくなる」との言葉も深く印象に残りました。

帰り道石岡駅から上野駅までの約一時間、ご一緒させていただくことになりました。東京までの車中澤さんは、「自分はやりたいことをやっているだけ」なのだ「人のためにと思って何かをやるとしんどくなって続けることが出来ない」と言われました。(藤井氏)

弱い自分を認め、素直に表現できるというのは、人間の真の強さではないだろうか。

わたしの母はアルコール依存症です。母の発病に自覚したのは、今から約年半前です。

当時のは自分のことで、目一杯でした。ある日から、毎日って言ってもいいぐらい多かった母からの連絡が来なくなりました。電話をかけても出ない状況が何日。やっと通じた母との電話。坂から転んで連絡ができなかったという。

後々父に聞いた情報では、母に異常がでたということでした。その後、肺炎が発病し入院をすることになり、わたしも日本から母が入院した病院に飛んでいきました。そこで見た光景は悲惨なことでした。今まで知っていた母はどこにもいなかったです。人間として生きるという意志を失った中年のおばあさんが一人横になっているだけ。母がそこまで心身が疲れている間、わたしは何をしたのかと。自分を責めながら、自分の感情もどんどんパニックに入りました。

そのときに力になってくれたのは、養成塾で学んでいた「心の自立」「和の実学」やいつも近くにいてくれたさんでした。このままでは何も変わらないということに気付き、母を健康にしたいと思うようになりました。肺炎が治った母は、その後、アルコール依存症の治療と肝臓治療を始めます。そこで直感的に分かったのは、母は体より心の病気が大きいのではないかということでした。退院してすぐ日本に来てもらい、ほぼ一ヶ月間一緒に生活しながら、母は少しずつ生きる意志を取り戻すことになりました。

それから、ヶ月間母は一人で、生きるためにアルコール依存症と戦ってきました。最初はわたしもいろいろと気を配ったりしてきたのですが、今思えば、大丈夫だろうとだんだん油断していた自分がいました。それから間もなくアルコール依存症が改めて発病し、今に至っています。今年の月、再び母を日本に連れてきたときに、父との話し合ったのですが、これが最後だと思って、母の病気を直すために一所懸命に自分ができることをやると。そう誓いました。

このたび、さんとも出会い、「生きるということは」とか、自分自身の人生を振り返って深く考える機会となりました。特に心に残ったのは、「弱い自分を認める、表現できるというのは、真の人間の強さではないか。」ということでした。

 『すべては今のためにあったこと』という本を思い出します。今起こっている様々な物事というのは、きっと未来をつくることになるでしょう。今わたしに起こっていることには、何かしら理由がきっとあると。何をわたしに言っているのかと。(後略)

【追伸】母の一番心に残った言葉は、「ただ命があって生きていくということと、目的のある人生というのは全然違う」ということのようです。(Iさん)


理念の時代を生きる(理念探究会改題)136号

理念の時代を生きる(理念探究会改題)136

 昨年から私が尊敬している方々が思いがけなく逝去された。その方たちの事を書いた記事を振り返りながら、正に「理念に生きた」方たちを偲びたい。

奥びわ湖物語・三田村正子様・享年八十八歳

語り部・童話の世界、

二〇一二年四月、桜の開花の遅れた満開の琵琶湖を訪ねた。湖北の桜は静かな湖面に映え正に満開だった。何度目かの菅浦は少しの旅人のみで、海津大崎の桜も遠望でき青鷺も飛んでいた。帰途、高月の渡岸寺の十一面観音を拝顔して、今回の旅の目的である「奥びわ湖物語」の作者の三田村正子さんを訪ねた。渡岸寺のほんのすぐそばにお住まいになっている。

三田村さんは私が大学三年生の時、グリークラブ(男性合唱)で指揮者をやっていました。十二月の定期演奏会で「山に祈る」という合唱組曲に取り組んだときにナレーターをやっていただいた。彦根で唯一標準語の語りの出来る女性だった。湖北を旅したことをお知らせしたら、是非一度寄ってくださいとお誘いいただき、湖北地方に伝わる歴史や祭事などを基に物語を創作した童話集「奥びわ湖物語」出版のお知らせを頂いた。早速読んでみた。驚いた。素晴らしい世界がそこにあった。絵は滋賀県在住の著名な日本画家の鈴木靖将氏がお描きになっている。「北近江に伝わる哀切で詩情豊かな心温まる10編の物語」と帯びに書かれている。大人の童話とも言える。近江に伝わる物語を掘り起こし三田村さんの想いを込めてまとめ創作された。私も、妻も読んで人間の愛しさ、哀しさを切々と感じた。今も語りの世界は続けられている。奥びわ湖物語はその一断面。まだ、新しい物語づくりが続けられている。

日本画の世界

ご自宅の玄関に入ると日本画と洋画が目についた。正面の屏風、上がり口の右手の檜の柾目の板に庭の花々と鳥や蜂、そして蛙も描かれている。三田村さんがお描きになったのだと。欄間に飾られている絵もご自分でお描きになったとのお話だ。上がってすぐの日本間の四方の襖にも美しい日本画が描かれている。洋画はお母様がお描きになったとのお話。二階の正面に描かれている絵は、お父様の絵だとの事、趣味の段階は遥かに越えた腕に、失礼を顧みずお尋ねした。

曾祖父が明治最初の外交官でベルギー・オランダ大使。祖母は明治時代、津田梅子たちの次の二回目のアメリカ派遣で留学され、英語を学ばれ、帰国後宮内庁にお勤め、昭憲皇太后にお仕えになった。お母さまは聖心を出てフランス・リヨンに留学され、ピアノと洋画を学ばれ、お父様は東京工大を出てソルボンヌに留学し、ご結婚後お母様の影響を受けて絵も描かれたとのこと。絵は幼少の頃から親しんでおられ日本画は、女学校の頃からやっていた。父上の彦根への転勤、終戦の年に女学校三年生を卒業、京都美大・洋画部門を受験したが、凄い競争率で、不合格。日本画は続けられ五十有余年、最近は仏画に力を入れている。帰る間際に少し仏画を見せていただいた。幾度も絵の作品展を開かれている。日本画は洋画と違って出来上がるまでに時間がかかる。その手間をお聞きするだけで改めて洋画との違いを感じる。至福の時間だった。作品展を開催されるときには万難を排してお伺いしたい。

お茶の世界

奥の部屋に通していただき、庭に面した襖を開けると、満開の桜の咲く日本庭園が広がる。床の間には昨年の強い風のときに倒れた大きな枝を三つに切って、畑においていたら驚くことに、花を咲かせたという。その小枝を飾ってあった。我が家は今、家の外も中も桜の花で溢れていると。庭に面した廊下の奥の戸に龍神の絵が描かれている。この方向は鬼門なので龍神を描いたのだと。その戸を開けると、想像もしなかった茶室が設えてあった。茶室は二十五年前に建てられた。この家を建ててくれた大工さんと幾度も関西方面、京都の有数の茶室を訪ね、茶道の道理にかなう茶室に仕上げるまでのお話もお聞きした。お茶も幼少の頃から習われ、年に数回、お茶会を催され、お茶も教えられている。食後、お茶を点てて頂いた。実に分かりやすく、お茶の世界の本質をお話してくださった。近かったら、進化経営学院に学ぶ塾生と共に学びたいと思った。

生命の静謐な発露

三田村さん現在八十二歳です。ほぼ毎日英語の塾を開いて、受験生に教えているとのこと。今教えている生徒たちが卒業するまで続けるとの話。不躾な質問に答えていただきながら、育ってきた家柄、家の歴史・文化、身につけてきた教養ということをひしひしと感じた。四十二年前、学生だったころお会いした三田村さんは標準語を話され、声優のような明晰なしかもしっとりと落ち着いた声の持ち主だった。その三田村さんの今も変わらぬ声には実は本人の教養や文化や生き方が滲み出ているのだと今回の再会で発見した思いがある。生命の静謐な発露を見る再会だった。

その後、大学のグリークラブのメンバーとそして翌年また、妻とお訪ねした。 

Mランド・小河二郎会長・享年九十五歳

成就の時代「私の質実経営」

二〇一〇年末に一つの小冊子を編集・出版した。益田にあるMランドの小河二郎会長が書かれた本の再版と言うべきか。その小冊子は、進化経営学院の人達の座右の書として備えることとあわせて志を持って生きたいと考えているこれからの時代の人に進呈したと考えている。書名は「私の質実経営」という。その中に成就の時代という個所がある。「人間の能力は、正に無尽蔵(むじんぞう)井(い)泉(せん)である。訓練や努力によって素晴らしい智恵をいくらでも発揮できる。だから縁あって共に働く人達にみんなの念いをかなえてあげたい。成就させてあげたい。成就を分かち与えてあげなければならない。そのために各自にしっかりとした目標を持ってほしい。社長になりたければ社長にさせてあげたい」という意味のことを書かれている。私が会長にお会いしたのは十六~七年前だった。丁度、私の創業前後の頃だ。以来私は師事してきた。平成八年・会長の揮毫になる「知行合一」の額を進化経営学院にも掲げている。

小河会長との一年ぶり東京での再会

二〇一一年は三回ほどお訪ねしました。一回目は3・11地震の後三月、善子のモラ作品を展示する美術館の改装の打ち合わせ、四月美術館オープン、七月養成塾塾生との合宿訪問。今年はのびのびになり、十一月の訪問を企画してお電話をしたら、丁度その日が上京して講演をされる日と重なり会食をさせていただくことになりました。

昨年の震災以来いち早く変化の兆しを見せた若いゲストたちの大きな変化の様子、変わらない大人や政治の世界とは一線を画し、変化する若者たちの姿。食堂で提供する食事は「白米から玄米」に変えて、段々みんなが玄米の生まれを納得してくる様子など等。

話が十二月に訪ねる予定のネパール・ヒマラヤの話に及ぶと、「僕もヒマラヤに行きたかった。その理由はヒマラヤを超える鶴の群れを見たかったからだ」と。ここでもネパールの話題がひとしきり。会長は李登輝元総統と同い年です。台湾を訪ねお会いしたこともあり、今年六月の訪問の際、ご紹介していただく予定でしたが、李登輝元総統が入院のためかないませんでした。

お父上は九十二歳でお亡くなりになられましたが、会長にお会いしていると、百歳は超えられるだろうと、善子ともども願いながら、快くお話が続きました。気がついたら二時間余りの時間が経過していました。明日の講演を控えて、名残尽きなきませんが、車を呼んでもらい、ホテルまでお送りし帰りの汽車にゆられながら会長とご一緒した一時の快い陶酔に耽っていました。

Mランド50周年セレモニー講話

二〇一三年十月二十四日、益田でMランド50周年セレモニーが開催された。昨年、十一月東京で小河会長がある会で講演される前日、中島室長ともども湯島で食事をご一緒する機会に恵まれた。そのとき、本日の会にお招きをいただいた。

小河会長・九十歳の講話

一言で言えば「運がよかった」という言葉で始められた。創業25周年の時には式典を行おうと考えていた。しかし50周年のセレモニーが行えることになるとは思っても見なかった。それを思うと、こうして自ら50周年の式典を迎えることが出来るとは正に「運がよかった」という言葉しかない。会長は今年90歳を迎えられた。台湾元総統李登輝と同じ歳だ。

第一に「やわらぎの像」=一無の像(一生無事故への祈念)に関してのお話だった。草柳大蔵氏の文芸春秋の記事「やわらぎの像」への想いから始まり、モータリゼーションの対極「こころ」が大事になる。その「こころ」を企業経営の中心に置く。「やわらぎ」と言う字は、火を三方から囲んで人間が語る姿を象徴している。この像は、第一号は新宿西公園に設置され、二号は横浜スタジアムそして三号はこのMランドに見ることか出来る。その後、設置された話は聞かない。

第二は「美しくなりたく候」という会長が早稲田大学に通っていたころの文学部教授であった「会津八一」に惹かれ、新潟に生まれ仏教美術史の研究や俳句、短歌への造形が深い。小柄であった彼が羽織袴で廊下の真ん中を歩く姿には威厳があったという。会津八一の言った「美しくなりたく候」という言葉は、Mランドの構内のあちこちに見ることができる。その具体的な姿が、ギャラリー・フォンテーヌであり、ロビーで見られる岡本太郎のリトグラフや彫刻である。

2011年1月会長から電話を頂いた。善子のモラの作品をフォンテーヌに展示したい、ついてはどのように展示するか相談をしたい。3月11日茨城県に住む私たちも東日本大震災の被害にあった。何とかしてその5日後Mランドを訪ねることが出来た。予定通り4月改装なったフォンテーヌにパナマサンブラス諸島の人が作る手芸の技法を応用したモラの作品14点を展示することが出来た。受講生のみなさんに一時の憩いを提供しているようだ。モラの作品は生きるエネルギーを放っている。

第三にNO1に関するお話であった。50周年を迎え、四輪車免許受講者で数年前ついに全国トップになった。自動車学校がスタートした時点では、Mランドは最盛期でも受講者数は七~八番だったという。25年前には260万人だった自動車学校卒業生は今や130万人、半減している。NO1になるということのイメージは、具体的には「NO1のあの山に登ろう」という言葉で始まった。NO1の富士山に登ろう。富士山の天候が一番安定している7月1日の山開きの日に合わせて、超繁忙期の最中、仕事を終えた社員ともども夜を徹して富士の近くまで移動。翌日五合目にバスで移動。当日八号目に泊まり頂上を目指す。早朝出発ご来光を迎え、登った人たちは山小屋や付近の掃除をして下山する。その夜には益田に帰り着く。会長70歳の年に始められ、三度も会長自ら登山されているという。「あの山に登ろう」と目指す方向、目標を指し示す。目標を達成する方法は、その時々によって変えればよい。

会長の著書「私の質実経営」の中に示され「成就の時代」という項がある。「想えば成就する時代だ」と。想うことがまずスタートである。今や、前述の自動車免許取得者激減の中で、毎年六千人以上の受講生が入学してくる。しかもその六割がMランドを卒業した親兄弟姉妹、知人友人のすすめでこのMランドに来る。私の妻や、私の友人の娘もその例に倣っている。自らが体験したMランドでのさまざまな体験そのものが推薦する理由であり、すなわちMランドの若者を惹きつける魅力であり、教習に携わる人たちの魅力そのものである。

第四に「知行合一」から「知行楽」という新しい概念をお話しされた。若い人に「親孝行をしていますか?」と問い、続けて「朝起きたら両親に挨拶をしていますか?」と問うと「していない」という。頭ではわかっているがその実行は心もとない。私も進化経営学院には平成八年元旦に会長に揮毫していただいた「知行合一」の額を掲げている。知っていてもそれは必ずしも実行していることではない、と肝に銘じ受講生ともどもとも精進している。

「知行楽」とは一日の仕事に全力を尽くす。全力を尽くして仕事をすれば、それは苦労ではない。この仕事の中に充実感が沸いてくる。ゲストに喜んでもらった。一日しっかり仕事をしたという満足感がひしひしと沸き上がってくる。「私の質実経営」の中に「尊業而自楽」という言葉がある。「業を尊び而して自ら楽しむ」と解説されている。一日の仕事が終わって自宅に帰るときに「ご苦労さま」「お疲れさま」と声をかけることが多い。会長は言われる。「いや、決して疲れた訳でもない。決して苦労したわけでもない。辛かった訳でもない」「むしろ、充実感に溢れた一日であったではないか」。ならば、「お疲れさん」「ご苦労さん」と帰る人に声をかけるより「ごきげんよう」と言おうではないか?と続けられた。「ご機嫌よう」。正にぴったりだと会長のお話を聞きながら、隣に座っている妻と顔を見合わせた。

最後に、自然(しぜん)と自然(じねん)という概念についてのお話だった。自然(しぜん)という呼称は人間と自然との対立のイメージがある。西洋文明=自然科学文明はある意味で自然の超克であり、自然を征服することに重点がある。人間が自然を克服して高い山や深い海、そして自然を切り拓くという概念か主流だ。日本はこの概念とは違う。自然(しぜん)と一体となって、人も自然の一部である。その概念を自然(じねん)と言う。自然(じねん)の時代、自然(しぜん)と一体となって生きていく生き方が大切だと言われた。

仕事を自分の生き甲斐にできるような会社を目指したい。社員が一生懸命仕事をする。そしてゲスト(お客様)が満足してくださる。そしてその結果みなさんや地域が潤ってくる。よくなる。そしてゆくゆくは日本が、地球がよくなっていく世界を目指したいと淡々と静かにお話しされ講演を終わられた。

天寿への道

二〇一七年十一月、ある資料を入手した。天寿への道という資料だ。その資料によるとスタートが還暦だ。還暦は六十歳、次が古希で七十歳、次が喜寿で七十七歳、以下傘寿八十歳、橋寿八十四歳、米寿八十八歳、卒寿九十歳、国寿九十二歳、櫛寿九十四歳、白寿九十九歳、百寿百歳、茶寿百八歳、王寿百十一歳そして天寿百二十歳までの道は遠い。

小河会長訪問

島根県益田を一年ぶり訪問した。二〇一六年十一月孫の吉彦常務の結婚式にお招きいただき、おもいもがけなく善子が乾杯の発声を頼まれた式だった。あれから一年。近況報告やら最近の私の仕事等を報告し会長を前に、「天寿への道」のお話しをした。会長は今年九十四歳になられている。櫛寿という。天寿は百二十歳というお話しをすると、常務に伝言され、会長室から一冊の本を持ってこられた。本は「健康寿命一二〇歳説」というタイトルだった。著者は船瀬俊介氏。

「健康寿命一二〇歳説」

実は私が、二年前に減量を試みたとき、年齢とともに過去のやり方では予定通り減量が進まないことに気がつき、偶然から善子の友人に貸してもらった「やってみました!一日一食」長寿遺伝子が微笑むファスティングという船瀬氏の本だった。面白半分に読んだのだが、根拠があることが分かり甲田光雄氏の「奇跡が起こる半日断食」にたどり着き、実践している。

偶然の話の繋がりから「健康寿命一二〇歳説」の中で森下博士(八十八歳)の世界中の長寿郷に学んだ事を中心に船瀬俊介さんと対談されている。この本で森下博士は世界中の長寿村を繰り返し訪問され、現地の人達にインタビューされた、滞在された現地体験を報告されている。そして、森下博士は「東京でガンやその他の治療に指導されている方法と世界の長寿村の食事に共通項がある」と言われる。具体的には玄米食だ。

ココロが磨かれる森の中の教習所

Mランドは全国から毎年六千人の人達が運転免許取得に来られる。二週間の合宿研修だ。ゲストの人達は六割の人達が、体験者の勧めでこのMランドに参加される。朝のトイレ掃除から始まるMランドの研修プログラムは、創業五十年の歴史ととも会長たちが築かれたことで、ゲストは滞在中様々な事を体験できる。詳細は省くが本格的なお茶の体験など、この合宿でゲストは大きな精神的変化と成長を体験する。特質すべきは朝の食事は今、玄米食を提供している。そして禁煙が定着している。何故運転免許取得とこれらのことが関係あるかと思われるだろうが、このことは事実である。妻のMOLAの作品を展示している美術館フォンテーヌもある。

この後会長とMランド構内を散歩した。雄大な自然の環境に囲まれたMランドはゲストの心身を落ち着かせる。YOGAの道を歩いた。私達が暮らす天命舎も自然の中にある。そして毎日のウォーキングコースはコンツオルズの道から湖水地方のように霞ヶ浦の湖畔を歩いている。自然の中で暮らす、野菜中心の食を楽しむ。過食をしない。そういう環境で自らの天命に添って生きることが「天寿への道」に繋がるのだろうと認識を新たにした小河会長との一年ぶりの再会でした。

生涯にわたる恩人・名古屋電請器工業・川本良三会長享年九十三歳

十年ぶりの再会・八十八歳

実に十年ぶりにお会いしました。二十二年前の八月一日長男倫太郎が北海道でバイク事故を起こしたとの報を受けたのは、東京から名古屋の川本社長(当時)をお訪ねし、面談中に、彦根の義母から善子に緊急の電話がかかってきたのです。その時の事故を起こした長男・倫太郎は結婚し二児の父親、シナリオ作家として元気で仕事しています

会長に初めてお会いしたのは、社会人になって名古屋に赴任した翌年、二十四歳の時です。当時から会社を数社経営していらっしゃいました。終戦後の会社を作るまでの経緯をお聞きすると、きりがありません。その根底は優れた技術をお持ちだったことが縁で、NHK・国鉄と繋がり、数社を経営されることになったのです。

その当時(一九六七年頃)家電店のグループ展開を意図して設立された日立系の会社でネッサ川本という会社の社長。技術に詳しい社長でしたから日立系列でありながらも、ソニーの商品も積極的に取り扱っていました。開店当時から私が担当しましたが、日本コロムビアの商品はわずかにステレオを扱っているにすぎない取引先でした。約二年の内にカラーテレビやオーデイオでは、トップの扱いをしてくださるまで、取引を伸ばしていきました。

私の結婚に際し、結婚相手に会ってくださいとお話ししたら「黒田君、結婚は今の君のような人間ができるものではないよ」と小馬鹿にされ、まったく信用してくれませんでした。が、彦根からご自宅に善子をつれて行ったら、「ほんとなのか」と驚かれ、あわててツッカケを履いたまま、レストランに招待してくださいました。その席で、開口一番、「善子さん黒田君とは結婚しない方がよい」ととんでもないことを言われたのを忘れることができません。私は当時から問題児だったのですね。それでも、お金のない私たちのために、アパートを見つけてくれ敷金も払ってくれました。私たちには大恩人です。

今から思い出しても仕事が楽しくて、楽しくてたまらない時期でした。社員の人たちとも仕事が終わってから「寺山修司の天井桟敷」の舞台や音楽会、ディスコや合宿研修なども企画して仕事を楽しんでいました。あのころはよく売れたねと今回会長も振り返りながらおっしゃっていました。

会長は当時から上京されては経済界、業界などでよく勉強もされ、時々講演会の様子をお話して下さり、刺激を与えて下さいました。特長のある部品製造の仕事は愛知時計やその他の取引先と幅広く取引されていました。訪問すると、話を聞いて下さり、時にお店の二階でよく食事をご馳走になったことを覚えています。今回の訪問で、会長が改めてまもなく八十八歳を迎えられるとお聞きして、その若さや身のこなしに善子ともども驚きました。

カメラの世界では超有名なハッセルブランドに六十五歳の頃から凝られここ数年、世界各国を訪問され写真集として数冊、出版されています。数年前にネパールを中心として、山岳写真家の白旗史郎氏と一緒にネパール・ナガルコットの日本人が経営するホテルにも支援をされ、写真の絵はがきを販売支援もされています。三年前社長をご子息に譲り、今は会長として経営にたずさわる傍ら、相変わらず颯爽と活躍されている。最近写真撮影は国内に絞っているとか。話題は縦横無尽。本社に近い新しい工場も案内していただき、名古屋市内の高速道路を飛ばしてホテルまで送ってくださいましたが、その運転の腕前に驚きました。八十八歳。信じられないほどお元気で、私達にとって、刺激的な再会でした。

 

茨城、彦根・経営計画熟考会

毎年末から翌年にかけて、経営計画熟考会を開催している。企業を制定している参加者は理念を背景にしながら基本的に本年度の経営計画を立てる。

覇道の世界

世界は正に覇道(競争)社会で対立の様相を示している。基本的に覇道は一、天下の勝ち残りが目的。二、敵の制圧・征服を通じて目的達成を目指す。三、覇道は権謀術数を駆使して優位を追究する。四、一生他滅をもって収束安定とする。五、覇道は異質排除、自盛他衰を行動原則とする。

世界の米国、中国の貿易戦争も、EUの対立も、日産とゴーンとの確執もこの覇道の原則に漏れない。少し大胆に言えば「利益最大化」を追究する大手企業は殆どが覇道的な姿勢に近い。その基本姿勢が企業の不正、従業員の酷使、結果としての働き方改革を唱えざるをえない結果を招いている。私達は和道経営を目指し互恵圏の拡大、身辺の和の構築、異質共存、互恵共栄を行動原則としている。

和道の世界

覇道世界のヨーロッパの近代は、合理化と効率化で、無駄に見えるものをなくしていった。しかし日本は近代になっても、無駄なものを残した。言葉を変えれば、情の力で勝つ日本のなかで日下公人氏が謳っている情の世界をまだまだたっぷりと残している。氏は「情の力」の神髄を以下のように説いている。

一、情の力でこそ高レベルの仕事に到達できる。二、「情」の戦略すなわち「知・論理」に頼らぬ日本的なあり方。三、「情」の組織論・情で繋がった関係性ほど強いものはない。

四、実力主義の社会だからこそ「情」が大事だ。五、巨大なものに立ち向かう日本精神 。六、苦境にも日本人の使命と希望を語り続けられた昭和天皇。六、近代が終わり、情が復活する。七、情愛深い日本人が求められる時代。

参加された経営者達は、それぞれ自社の経営計画を立てられた。理念を背景とした経営、換言すれば利益追究が優先ではない。理念に添った経営計画、日本的な経営を具体化したい。

和道経営の実践企業

彦根での経営計画熟考会の最中、彦根の知人より「近江商人の哲学」「たねや」に学ぶ商いの基本をプレゼントされ、具体的に彦根にあるお店を参加者と訪ねた。たねや創業家の十代目を迎える山本昌仁氏の著書を読みながら、言い知れぬ興奮を感じている。近江商人に和道経営を実践してきた企業の発見した想いだ。今年はこの「たねや」を視察、探究したいと企画している。


脳力開発135号/理念探究会135号

脳力開発135号 和道と覇道・世界は覇道国同志の対立激化

オバマ大統領からトランプ大統領に変わってから、アメリカ国内はもとよりヨーロッパではトランプ大統領に関しての様々情報が行き交うようになっている。トランプに関する記事はCNN、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストの記事の焼き直しだから、日本には実際のアメリカの実態が伝わってこない。トランプについての評価は、日本の新聞メディアからは現状はつかめない。識者と言われる人間も多くは「木をみて森を見ず」の例えどおり、部分情報についてあれこれ言うが、誰も本質的なことからは遠い。最近の中国・ファーウエィに関する記事も鵜呑みにはできない。今回は私達が学んできた思考の原則に戻って考えてみる。

その一、和道と覇道

  • 歴史を振り返ってみると長らく覇道時代が続いてきた。人々は物心ついたころから優勝劣敗の競争コースに乗せられ、成功者は人生の勝利者と表現され、単純に考えれば競争に勝った人である。企業社会でも競争が激しく「生き残り戦略」が喧伝されている。「厳しい競争社会をいかに勝ち抜くは普通のように考えられてきた。
  • 聖徳太子がとなえた「和を以て貴しとなす」に遡るまでもなく、日本は「和」の実践学が文化として根付いてきた。しかし明治維新を契機に欧米の覇道パラダイムの下で発達した文化が流入してきた。さらに第二次大戦後の米国追従で一団とこの「和」の文化遺産は影を失ってきた。
  • 私達は脱覇道を目指し覇道型経営から進化した和道経営を実践してきた。そしてその基本になる理念型経営を実践する過程で理念を土台とした和道経営を実践している。

以下、覇道と和道の比較をしながら分析してみる。

覇道と和道の比較

[目的]

覇道は、天下の支配(勝ち残り)を目的とする。

和道は、永続的・安定的な平和秩序の確立を目的とする。

[達成過程]

覇道は、「敵」の制圧・征服を通じて目的達成を目指す。

和道は、互恵関係の拡大発展を通じて目的達成を目指す。

[方法]

覇道は、権謀術数を駆使して優位を追求する。戦略(覇略)を追究。

和道は、身辺に和を築き、それを飛び火的に拡大する。和略追究。

[収束観]

覇道は、一生他滅をもって収束安定とする。

和道は、全体和合をもって収束安定とする。

[行動原則]

覇道は、異質排除、自盛他衰を行動原則とする。

和道は、異質共存、互恵共栄を行動原則とする。

  • 近々の世界は中国と米国の貿易戦争が巷間の話題である。中国は正に次の覇者を目指して米国に対立している。米国は第二次世界大戦後覇権国として世界に君臨してきた。しかし、物事は永久に覇権国であり続けることはあり得ない。それは第二次大戦までの世界の歴史を振り返ってみれば明らかだ。
  • 覇権国米国はその後、覇権を維持するために膨大な経費を負担していた。その負担に耐えきれなくなった時に、中国が米国の隙をついて軍事力を拡大してきた。南シナ海に七つ人工島を造成し軍事基地にするなど秩序を無視して、国際法をゴミとうそぶいて軍事侵略行動を続けている中国に関して、いよいよアジア諸国ばかりか世界の眼がかつてないほどに厳しくなった。
  • 冒頭述べたように覇道時代は十二世紀(ルネスサンス)から延々と続いてきた訳で優勝劣敗は生物の世界でも普遍性をもって信じられてきた。白人中心の世界は正に文字通り覇道的な競争を続けてきた。従って世界は今でも覇道時代の価値観に染まっている。

 

その二、米国の中国に対する基本姿勢

2018年10月4日ペンス副大統領は米シンクタンク・ハドソン研究所で約50分にわたって対中国政策について演説を行い、中国による国際秩序の破壊を見過ごしてきた日々を「終わりにする」との決意を表明した。

この演説は第二次世界大戦後、当時の英国首相チャーチルによる冷戦の始まりを告げる「鉄のカーテン演説」に譬えられ、トランプ政権の「対中ドクトリン」とも表される。

全文を読まれた方は殆どないだろうが、勉強会ではほぼ全文13ページを読了した上でいろいろ和談をすることにしている。骨格をまとめると以下のようになる。

  • 中国は米国国難政策や政治活動に干渉してきた。
  • 一九四九年共産党が政権を担当するまで、米国は蒋介石・中華民国を永年支援してきた。
  • ニクソン・キッシンジャーによる日米共同声明後、多大な投資を中国にしてきた。
  • しかし、共産党は「メイド・イン・チャイナ」計画を通じて大規模な窃盗をしてきた。
  • 今や、中国は経済的な攻撃を選択し、他方、類を見ない監視国家を築いた。
  • 宗教を弾圧し、チヴェット、ウイグル人を弾圧し思想改造を行っている。
  • アジア、アフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリに対して「借金漬け外交」をしている。
  • アメリカは更なる関税を課す可能性をもっている(用意がある)。
  • 中間選挙にも介入、地元紙への有害PR記事を掲載しプロパガンダ放送も流してきた。
  • ハリウッド映画にもあれこれ干渉している。
  • 学問、言論の自由を破壊している。中国からの資金提供などで標的にされている。
  • 中国の悪行を引き続き暴露していく方針だ。

骨子を書いたが、副大統領の演説は、文字通り縷々詳細に認めている。これがアメリカの中国に対する基本方針で、今後はこれをベースに中国に対して戦略をたて具体的に進めるであろうことは明白だ。このアメリカの対中戦略を頭に入れておかないと到底現状から将来に賭けては見通しできないであろう。覇道国家同志の対決を承知しておく必要がある。

 

その三、AI監視社会・中国の恐怖 

  • 先月、深セン・ハイテクフェアを視察してきたが、その前に見える現象の裏にはこの技術の国家的な活用の仕方がある。中国はかつてのシリコンバレーやWCCFを主宰した民主主義国家アメリカではない。開催は共産主義国家である中国で、企業経営に対しては強烈な統制や国家の企業支配が強制され、要請される。その国家の強制力を無視できないのが中国である。単に、技術力だけで評価することができない。
  • そのことが、アメリカ・カナダやオーストラリア、ニュージランド、欧米、日本を含めてのファーウェイの事件である。この事件の前から、中国に対して次のように見ている識者が存在する。中国の現状を違った角度から見ている。

中国は今、AI技術で米国を凌ぐ勢いにある。

  1. 連邦議会もメディアも、中国への嫌悪のレベルをはるかに超えて、「反中」ムード。
  2. 共和党、民主党もこぞって「反国を叩きつぶせ」という極論も登場している。
  3. オバマ前政権までの中国妥協路線時代には考えられない「反中」という政治環境である。
  4. 10月4日のペンス副大統領の発表が米国の意志を明示している。

中国の実状

第一・中国の社会的矛盾の深化 不平等の恒久化

  • 2018年7月から頻発する労働争議に、北京大学や清華大学の学生が応援している。

第二・中国の外向的難題が一向に解決されない

  • 中国は金で縛って台湾との国交断絶を主導している。
  • 米国は台湾旅行法を制定して台湾を擁護している。
  • 軍事力と外貨をバックに脅迫敵外交、中国圏拡大にきしみが出ている。
  • 一帯一路の矛盾・蹉跌があからさまになっている。
  • 2018年マハティール首相のシルクロード・プロジェクトを中止した。

第三・サイバー・パールハーバー警戒せよ

  • 国民監視システムのほぼ完成 AI全体主義システムの弱点が露呈。
  • 日本は平和目的・経済の効率化・暮らしの向上、どのような職種が省力化されるか、どのような産業分野がどのようになるか明記していない
  • 中国は軍事目的への転用を狙っている。
  • AIを駆使した顔識別技術で既に一万人の犯罪者を逮捕した。
  • 北京・中関村「北京こう視科技」視察で犯人逮捕の効率を教えられた。
  • ウイグルの民族浄化、ムスリムへの弾圧強化、人権無視、顔認識、声紋のデジタル統制に国際非難が起こっている。

第四・中国の経済的破綻が近いという不安の増大

  • 不動産投機、シャドー・バンキング、理財商品、ヤミ金融、ネット上のP2Pという貸し金業者。習近平の登場が減り李克強の記事が登場し始めた。
  • 一人っ子政策をやめてかえって出生率が低下前年より六十四万人減少している。
  • 中国が始めるサイバー・パールハーバーに警戒せよ
  • AI技術 2018年顔認証カメラ5700万台出荷60%が中国。
  • 中国のビッグデーターは国民を見張っている。
  • ドローンの生産量は世界一、スパコンも演算技術で世界一、5G開発でも世界の最先端
  • 次世代量子コンピューター開発も世界一を狙っている。
  • 清華大学2018年報告では2013年から2018年までの累計で世界市場の60%寡占。

このことは先日深セン・ハイテクフェアを視察して漠然とした不安として、中国の技術が様々な分野で突出してきた現状とそれに伴う企業の事人件費減少とは別の問題が浮かび上がってきた。(悦司)

 

理念探究135号 理念企業の環境整備・そうじの力

十二月鯖江での理念探究会の最中、理念制定企業メガネのフレームを専門とする印刷会社(有)ファインの見学会があった。MKDメンバー八名で参加した。社長の藤井高大氏は鯖江若手経営者が学んでいるMKD(未来対応型経営塾)の塾頭をやっている。

藤井社長は二〇〇二年創業、社員は彼がバスケットボールを学生時代からやっていたことがあって、創業当時から社員バスケットボールで共に汗を流したメンバーが中心で取り組んでいる。まるで、パタゴニア(登山用具から始まったスポーツ関係の会社)の創業に似ていると思った。

創業一〇年まで右肩上がりで文字通り順風満帆の時代を過ごしていた。が、振り返るとそのころ、企業の転換期を迎えていたようだ。次のステージを目指し倫理法人会でMKDの村上塾長にも出会い、「そうじの力」主宰の小早祥一郎氏にも出会った。そして以来約八年にわたって環境整備に取り組んでいる。

「そうじの力」社長小早祥一郎氏

小早祥一郎氏は私の主宰する次世代型経営者養成塾の第一期生であった。かつては今話題の日産に勤めていた。優秀な社員であったが、今話題のカルロスゴーンが社長として赴任する前に意あって退社した。

その後、縁あって養成塾第一期生として八名の塾生として和道経営を学びながら、二年後養成塾を卒塾、理念探究にすすみ理念を制定し「そうじの力」を創業した。その間、養成塾の講師の役も永年勤めてもらった。当時の第一期生は現在すべて社長に就任し活躍している。彼の活躍ぶりは「そうじの力」で検索願いたい。

ファイン社長・藤井高大氏

藤井氏は小早氏の紹介もあって環境整備に取り組まれる一方、並行して茨城まで足を運ばれながら理念探究にも取り組まれ二〇一六年に企業理念を制定された。

環境整備に取り組まれ始めて八年になるが、数年前ファインの企業研修、企業見学をした。二〇一六年には企業理念制定式も開催したから、知らないわけではない。しかし今回訪問して本当に驚いた。会社が全く変わっている訳だ。文字通りここまで変わるということは今まで経験したことがない。小早氏の指導されている会社の変化、成果は毎月の小早氏のレポートと添付される動画で拝見しているのだが。

日本を美しくする会

環境整備については「日本を美しくする会」発祥の地岐阜県恵那市の東海神栄電子工業の社長田中義人氏(今年一〇月一日社長交代された)とのご縁が古くからあって田中氏が平成三年十一月に鍵山秀三郎氏に出会ってからの掃除道に生きる実践を垣間見てきた。何年にもわたって東海神栄電子工業を手本にして私の関わる経営者の人達、社員と視察と体験をして学んできた。

それまでは目標とする企業を視察し経営者に会い学ぶというスタイルだった。が今回改めて「企業が『そうじの力』によって変化成長する」ことを体感しました。

ファインの報告

一時から四時までのスケジュールで、社員(今回は工場長坂下氏)のプロジェクターを使っての説明。ビフォアーとアフターがあるわけで、非常に分かりやすい。格段の変化を認識させてくれる。一時間賭けて社内、職場の案内があった。各部署の説明も分かりやすい。以前の仕事の状況・環境と変化している今を担当者が説明する。それだけではなく視察場所を見学者が見落とすことがないように楽しみながらチェックできるように案内チラシもつくっている。しかも使った資料、台帳をもとに戻すということにも工夫がある。ビジュアルにして具体的には漫画や自分の好きなタレントの写真を資料の背表紙に使っている。

率直な感想で言えば一人一人が工夫している。仕事に関わる環境を働きやすいのみならず美しく整えている。楽しんでいる雰囲気が伝わって来る。現場に行くとよく分かる。

小早氏の報告

その後、小早氏による「そうじの力」の報告があった。共通することは環境が整えられる、綺麗になるということではない。それは当然として働く社員、勿論社長が変化する。ファイン社長藤井さんは「社員みんなの意識が前向きに、そして明るく変化し、社内にまとまりができてきた」埼玉県K社の社長は「売上目標に対して野一色・数字が足りないとみんなで支援していこうという意識が芽生えた」という。

私も存じている島根県・石見交通の社長は「若手社員の成長に、10年先の明るいビジョンが見えた!」断言される。みなさんも御存じの香川県・西村ジョイの社長は「6000坪級のホームセンターで3店舗が『倉庫在庫のゼロ化』を実現させたという。この業界では『倉庫在庫がゼロ』不良在庫がないということです。この業界ではまずありえないことだと思います」言われている。

理念企業「ファイン」と理念企業「そうじの力」の互恵関係

ここまで、会社の美観も社員も変化しているとは思わなかった。私は小早氏に、いや見事に変化するものだ。と伝えた。すると小早氏はいくらでも変化するもですよ。と藤井さんともども胸を張った。感服した。

いままで掃除を継続している企業に毎回新たな変化を感じることはない。理念を制定し、理念浸透のためにいろいろ手立てを講じる。人を変化させることは正直言うと容易ではな。

人を変えることは基本的にはできない。どんな指示命令も、計画目標もきめても、役割責任を決めても、どんな規則規制をつくっても、どんな約束をさせても、どんな正義正論を教え、垂れても根本的にはできない。他動的に人間を変えることはできない。

社長が変わる、社員が変わる、会社が変わる

私の恩師「脳力開発」の創始者・城野宏先生はこのことに関してこう言われている。「自分が変わる」「周りが変わる」「他人が変わる」という。まず取り組む推進者が変わる。小早さんは「そうじの力」を始める前に推進者は社長だという。社長が推進役にならないと環境整備に取り組む会社も劇的な変化はない。だから環境整備「そうじの力」の導入にあたって、「社長の本気度」を挙げる。

上記に挙げた企業は見事にトップが率先して取り組み、結果を出している。今回視察したファインと「そうじの力」はまさにその実例だ。上記の企業は創業者やあるいは経営者が「使命観」「志」をしっかりともっている。そして明確な何のためにという一、目的、二、社長の本気度、三、強制ではなく楽しみながら取り組んできた結果が、素晴らしい結果を生み出している。換言すれば、利益を優先させる、利益を上げることが最優先の企業では環境整備も定着することはない。「そうじの力」は、企業を変える力があることを体感したファイン環境整備見学会だった。

(悦司)