経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発134号/理念探究会134号

脳力開発134号

シンセン(深圳)ハイテクフェア視察記

十一月十四日から開催されるシンセンハイテクフェアに行ってきました。七月、和環塾の最長老の勘場さん米寿祝いの席で深圳に行ってみませんかという話があった。かつて勘場さんと一緒にシリコンバレーを案内してくれた米川さんに企画してくださいと頼んでおいた。

九月ごろ進化経営学院の理事を務める須田さんから、シンセンに行きませんか?と誘いがあった。須田さんが指導している自販機を取り扱っている会社・原田さん親子と総勢六名で参加することになった。

今年のフェアのキーワードは5G、AI、新世代情報技術、スマートシティなどと発表されている。新興産業、金融、人材、などにも焦点をおいている。昨年は公式発表でのべ60万人が来場しており、約3000社の企業が出展している。中国で一番大きなテクノロジー関連の展示会となり、毎年世界から注目されている。

十三日朝十時二十分に成田から出発した。香港経由で入った。空港からバスに乗り約一時間、シンセンのイミグレーションで何やら複雑な手間のかかる検査がある。とりわけ白人系の人達には微に入り細に入りパスポートを見ている。私は簡単だったが、同行者は結構時間がかかった。結局ホテルに到着したら夕方を過ぎていた。早速空腹の腹を満たした。なかなか美味しかった。六人で楽しんだが、想像以上に安かった。

翌朝、十時に会場に到着したが、一般及び海外からの申し込み者は午後十二時からの入場だった。午前中は展示ブースの開催者関係のみで、十二時近くまでマクドナルドでコーヒーを楽しんだ。シンセンは三十年前経済特区に指定されるまでは小さな漁村だったそうだが、今は一四〇〇万人の大都会になっている。ホテル近くの通りや会場近くのビルを見ると東京以上のビルが建っている感じだ。

海外からの入場者は事前登録をする必要があります。登録した世話役の人の名前はあるのですが、私達の名前が未登録だということで、ゴタゴタしたが、なんとか入場することかできた。受け付け中国語が殆どで英語ではなかなか通じない。結局申込書をスマホに録画していたので、なんとか入場することかできた。一般入場は勿論、長蛇の列。入場料五十元約三〇〇円。しかしこのフェアは既に二〇回目を数えるということだ。

今回は四号館を中心に回った。工業、情報化展会場で、自動化システム設備やロボット等の製品、技術、部品などが展示されており、中でも無人コンビニのキャッシュレス設備を見ることがテーマだった。顔認証システムもずい分進んでおり、通行人を写し年齢を把握し直ちに年齢分析をしてグラフかするというシステムもあった。ItoA、AIでは最先端を行っているようです。全部は回りきれないが、六号館はスマートシティーに関連するネットワーク技術、クラウドコンピューテインク、人口知能などの製品や技術が展示されていた。会場は広く、一号館から九号館まで広く二号館ではスマート医療展も開催されていた。三時間ほどの滞在で一七〇〇〇歩も歩きました。

翌日はアジア最大の電子街である華強化・ファークャンベイも訪ねました。かつて秋葉原を担当した経験がありましたが、この地域もおそらく真っ白なところにビルを建てたのでしょうから、規模は非常に大きなものがあります。まあ何といっても中国スマホトップメーカー、ファーウェイや関連の会社が目白押しです。正に秋葉原のようなパーツ専門の店舗もありドローンやロボットを扱っているお店もありました。今回は特に企業訪問は計画していなかったことと、言葉が殆ど中国語だということもあってシンセンのハイテクの一端に触れたというの感想です。

一八九八年、コンピューターラッシュの最中、西順一郎先生とロスアンゼルスのWCCFワールドコンピューターフェアをメインとしてアップル、マイクロソフト、インテル等を訪ねスタンフォード大学、つい前年まで孫正義通っていたカリフォルニア・バークレー校の旅をした。

一九九六年二度目シリコンバレーをNTTに勤めていた米川さんをリーダーとして当時巷間言われていたシリコンバレーを訪ねた。この旅はヒューレッド・パッカードの二人が創業したガレージから始まり、シニアネットの普及とスーパーへの注文をハソコンでやるシステネ、ヴーォイスメールを中心にしているVOYSIS社サンマイクロシステム社の視察等を訪ねた。そして今二〇一八年私の友人の息子がトヨタから派遣されシリコンバレーで最近の技術研究のまとめ役を勤めている。

今回以前の旅を振り返りながら、確かに人間が開発した技術は現実に進んでいる。そういう視点から考えて、「バードウェアのシリコバレー」として変貌しているシンセンを訪ねたが、いずれ今テーマになっているItoAやAIの進歩が、果たして人間の幸福感にどのように貢献するのかと若干疑念を感じている。なぜならばこれらの技術は経営における省力化(社員を減らす)の方向が目的の一つになっているからだ。多くの職業が一〇年しないうちになくなっていく可能性を秘めていることは間違いない。経営は利益を挙げることだけが目的ではないはずだという想いを吹っ切れない。(悦司)

 

 

理念探究会134号

七度目の烏山頭ダム・八田与一を訪ねる

昨年知り合った烏三頭ダム・嘉南農田水利会の勤務・羅恵如さんを訪ねて今年も台南を訪ねました。昨年、休日出勤していた彼女とお嬢さんに出会い、突然の訪問客の私達にとても親切に八田与一のダム開発のDVDを豊かな試聴室で見せてくれました。そして貯水池を一望に眺められる二階の展望ロビーから見せてくれ、御礼に善子のモラの作品集をおくる為に住所をお聞きし一方八田与一の記念誌をいただき交流が始まりました。

今回、彼女はワザワザ休日をとって、到着の翌朝ホテルまで迎えにきてくれました。最初に成功大学を訪れ、昭和天皇が皇太子時代にお手植えされた樹齢百年のガジュマルの樹を訪れ、日本統治時代から成功大学が丁寧に管理している巨大な樹の前で記念写真を撮りました。

次に台湾歴史博物館を訪ね、台湾の歴史、時代の変遷を資料とジオラマで一時間ほど見学、沢山の子供たちが勉強にきていました。

管理事務所トップ洪振東氏との出会い

ダムに到着、早速八田与一の像を前に三人で手を合わせ日本人として今なお沢山の人たちから尊敬され与一に感謝の言葉をそれぞれ唱えたようです。事務所に到着する途中、通訳機アイフォンで私の上司が貴方達を招待して、お待ちしていると話してくれました。

到着すると上司の洪振東氏が玄関立って迎えてくださり、早速応接室に通してくださいました。彼は管理事務所の総責任者です。早速自己紹介をし、羅さんと知り合った経緯と既にダムを何度も訪ねていることをお話しました。筆談です。それから彼が取り出したアイフォンの翻訳機を使って、あれこれ情報交換がスムースにでき話がはずみました。

八田ビールで乾杯

初対面を祝して台湾ビールで乾杯です。この地、善化工場で造っている台湾ビールを私達「八田ビール」と呼んでいる。烏山頭の水を使っていると誇らしげ語るのです。何度も乾杯しました。沢山の日本人や台湾の人たちが訪ね、ついでに最近来た手紙の代読、翻訳をしてほしいと頼まれ、沢山の訪問客からの手紙を見せていただきました。ダムができた当時、花園小学校の卒業生だった方の手紙を読み、当時の日本人たちの思いを垣間見ましした。

ダム・貯水池を遊覧

 ボートを出してダムを案内してくれるという。ボート乗り場から三十~四〇分の周遊だった。日本で言えば松島巡りとでも言ったらよいのか。途中の島に上陸して、かつて総統が来客をもてなしたバンガローまで案内してくれた。風景のすばらしい閑静な林のなか。いまは使われているかは不明。

放水口・施設の視察

乗り場にも戻って、放水口に案内してくれた。管理者の人が、放水の現場を見せてくれ、実際に放水を始めた。数分の内に轟々と音を立てて、水が噴き出てくる。その水の勢いをみていると。八田夫人の投身自殺を思い出した。一九四二年六月、八田与一がフィリピンに赴任する船が米軍の魚雷で沈没、享年五六歳だった。一九四五年七月総督府で葬儀、その年の九月一日、夫人・外代樹(とよき)は「子供達にもう大人になったのだから、しっかり生きていきなさい」と遺書を残し放水路に身を投げたと聞いていた。四十五歳だった。

八田外代樹の投身の地

妻善子はこのすさまじい轟音の放水口に身を投げたのかと思った瞬間、涙があふれたと私に話してくれた。おそろしい水の勢いに私も身がたじろく。動画で撮影したが、おそろしい水の勢いだ。この水が嘉南大洲を潤したのだが。乃木将軍は明治天皇崩御に際し殉死された、その夫を追って札奥様も自害された。与一亡きあと夫を追った外代樹の逸話を体感し、現代の人達ではとても想像できない明治時代生まれの夫婦の心情を思った。

夫亡き後、夫を偲び後を追う妻の心境はいかばかりなものか?夫の後を追う妻の心境は二人が生きること、思い、志という表現では相応しくないが、支えあってはじめて人生を全う出来るという思いが外代樹夫人をそうさせたのではと思われてならない。

地下遂道トンネル

そのあと、放水口の地下の部分を案内していただいた。地下深く延々と下っていく。大きな逐道がきれいな鼠色で塗られ続いている。両脇にはパイプがズーット繋がれている。その奥から上部に梯子がついていてダムの中央に出て行くだという。真っ暗で、とてもよじ登る気にはなれない。この構造に驚きつつ、地上に戻った。いささか疲労を覚えた。写真から想像願いたい。

二〇二〇年理念型企業快労祭の企画

二〇二〇年には理念を制定して経営をしている企業の第二〇回・理念型企業快労祭をこの台南で開催したいと構想している。既に初期の理念制定者たちとは台北で開催したが、新しい制定者も交え開催したいとこの構想を洪振東さんに話した。非常に喜んでくれた。

来年も訪れ、プランをもっと練りたい。桃園空港から新幹線を利用すれば、夕方早め台南まで移動できそうだ。台南は台北とはまた異なる日本的な建築物のみならず日本文化を色濃く残している、台南を訪れ八田与一の新たなく足跡を追いたい。かつ文化・伝統・食を体験し日本人がこの台湾に残した日本的貢献を振り返り、明治、大正、昭和の日本人の気概を検証して見たい。(悦司)


脳力開発133号/理念探究会133号

脳力開発133号

大学卒業後10年目の創業

ひとりの青年・瀬来雄一君のことを書きます。彼はダスキンせらい瀬来清美氏の長男です。彼が大学3年生ころ次世代型経営者養成塾に参加してもらったこと始まる。大学卒業にあたる年、卒業論文の変わりに、理念制定をしていた全国各地の企業経営者を訪ね、経営者にインタビューして訪問記を書いてもらった。北海道、仙台、群馬、高崎、鯖江、香川、広島とめぐった。10社以上を訪ねた。そして一宿一飯のお礼に、トイレ掃除でお返しをしてきた。起業の心構えをきいてきた。

  • 自己派遣業すすめ

卒業後、家業であるダスキンに入社する予定だった。私の考えとしては、そのまま社長の息子として家業を継ぐことには疑問だった。学校をでて就職をするというのが一般的で、今もそういう固定観念に縛られている人が多い。就職活動が最近では大学二年生あたりから始まり、今年経団連は統一した就職活動の廃止を唱えた。

私達は「自己派遣業のすすめ」というコンセプトで、卒業したらそのまま、就職するのではなく、独立という道も選択肢として考えるということを思考していた。独立した後、自分ですべきことは、税金の申告、国民健康保険の手続きぐらいなもので、自立支援型の事業家と出会えば、第一歩から独立事業主として提携のビジネスが可能である。実際に広島に住んでいる経営者はこのことを新卒者にすすめ実践していた。

  • 新卒から仕事ができるか?

今年2018年、働き方改革の切っ掛けになったのが、電通に就職して一年目に自殺した東大卒の高橋まつりさんのことだが、彼女のことはさておいて、大学を卒業してすぐ一人前の仕事ができるか?ということには大いに疑問がある。私は30年間ほど、新卒(高校、大学卒)の新入社員研修に携わっているが、新卒が一年目から仕事ができるわけがない。当然といえば当然だ。にもかかわらず企業は一人の社員として給料をはらい、教育をせざるを得ない。新卒採用の弊害だ。

  • 自己派遣業のすすめ

話を彼の当時に戻そう。彼自身も実家のダスキンせらいに就職しても、すぐ一人前の仕事ができるわけではない。私は彼に自己派遣業の形をすすめ、数年は一人前の賃金をもらうのではなく修業の後、一人前になって始めて妥当な賃金に匹敵する報酬をもらうようにするという契約のあり方を唱え、彼の屋号をYOU/ONE/WORKSと名付け家業についてもらった。その間は修業であると考え本人は一日も早く仕事を習得することを心がける。

現実に、私が述べる形態については十分の理解をえられないまま、半年後には社員として就職して給料をもらうという形になってしまった。これは私のフォローが足りないことと卒業したら就職し、仕事ができてもできなくても賃金が支給されるという世間一般の就職・就業の仕組みを打破できなかったことにある。

  • 入社後の実態・嫉妬の対象

さて、その後彼はどうなったか?家業ではなく他社に就職して他人飯を食い修業している場合には起きないが、新卒として入った仕事のできない社長の息子は、人間が持つ原罪である「嫉妬」の対象として職場に曝されることになる。当人がチャランポランな性格ならまだしも、誠実で愚直な性格で、自分の意見をしゃべるタイプではない。また父親である社長としては一日も早く一人前になって欲しいから、何かとアドバイスとして忠告、干渉し本来ならば幹部だけでいいはずの会議にも出席させるという過ちを犯すことになる。期待と現実には当然ギャップが生まれる。一人前に仕事ができる経験も能力もない彼は、私にいわせれば「毎日が針の上の筵(むしろ)」状態だ。しかし、彼の心境を理解する人は少なかった。殆どの人が無関心だった。

  • 先輩、同僚からのいじめと退社

そういう彼を嵩にかかっていじめる同僚、こんな根性で将来経営者になれるのかと言葉には出さないがそんな心理状態で指導する上司。そういう先輩同僚の諫言を無視できない父親である社長は彼を指導しょうとする。そういう構図になってしまった。詳細は省く。

私も可能なかぎりフォローしたが、到底彼の取り囲まれた状況を打開できなかった。五年の月日が経った。そして突然彼は自分の意思で、退社し家を出てしまった。

どこに行って何をしているのか?風の便りでは九州に流れて行った。そしてその後大阪に移ったと耳にはするが、確かなことは皆目わからない日々が続いた。雀荘に勤めている。パチンコ屋にいる風の便りに聞いた。

  • 彼の長所・物おじしない性格と博才

彼は大学3年の時に天命舎にきた。2年通ってその卒業論文の代わりに理念制定企業経営者インタビューの旅をしてもらった。その間に12月にヨーロッパ研修を企画して、その経費は自分で貯めろと指示をした。そうしたら3カ月後、30万円ためたと報告があった。どうして貯めたのかと方法論を聞いたら、賭けマージャンとパチンコで貯めた。雀荘で馴染みのパチンコ名人に目的を話して方法を聞いたら、遊びでは儲けられないといわれ、仕事として取り組む姿勢を教授された。パチンコは数学の確率論だき言われ実行した。そしてお金を貯めて私達ともう一人の青年4名でドイツ、オランダの旅をした。旅行中、毎朝読書会もした。彼のマージャンの腕は特筆するものがあった。

  • その後、居所は母親には伝えておいたらしい。3年経って会社の幹部が何とか捜し当て訪ねていった。彼を支援していた幹部二人が訪ねた。そして会った。一瞬帰ろうかと思ったが、このままだと同じ繰り返しになると自戒し、誘いに乗らなかった。その後、父が訪ねてきた。会社には帰らなくてもよい。しかし、何とか家名を継いでくれ。家業は継がなくてもよいと。その時、彼は家名を途絶えさしたらいけないと思った。
  • その後2年経った。父が65歳で社長を退く覚悟は知っていた。そして次期社長と役員になる社員から、今までにない事業を始めたい。ついてはその事業の中核になってくれないかと言われた。この仕事ならば誰もがやらない仕事だから、立ち上げて軌道に乗せれば、過去の自分を断ち切れると思った。
  • 帰郷の決心

家を離れてから五年、自分の心の中でもいずれ事業(家業)を継ぐことはなくても、父のいう家名を継ぐことは断れないし、自分もどんな道で生きていくかはまだわからないが、この機会に帰ろうと決めた。誰もがやっていないこの仕事は自分を試すに相応しいと感じた。今年6月、今から3カ月前に故郷に帰った。

  • たった一人の創業

提案のあった仕事は「高齢者向け配食サービス」事業だった。ビジョンだけは決まっていたが、場所も体制も全く自分で取り組まねばならなかった。立ち上げの準備に入った。ワタミのような冷凍食品を解凍して配達しているものは、やはり食感に問題がある。研究の結果なんとか当日仕上げる生産業者を見つけた。

  • 店舗及び事務所も自分で検討して決めた。計画を立て検討するとおのずと家賃にも制限がある。あれこれ検討したが何とか、望みのところを探すことができた。この広さならばお客様がいくら増えても対応できる。当初自分一人でやるつもりだったが、縁あってパートの人にであうことができた。この人は本当に素晴らしい人だった。9時から3時まて、親身になって働いてくれ。年齢も私と同じぐらいだ。子供が複数いるのだが、この仕事に対して実にわがこととのように働いてくれる。
  • 開店資金等はすべて自分がこの5年間稼いで貯めておいたお金を使っている。父親から資金援助はなかったのか?と聞いた。全くない。金銭的支援皆無との話をきいた時、彼の決意を感じた。家を出てからの5年間が全く無駄ではなかった。回転資金、運転資金で300万近くは既に使っている。1年後損益分岐点顧客数を想定していたが、3カ月目の後半で、なんとか自分の給料は払えないが、トントンまで顧客がついてきた。
  • 朝6時30分から用意して昼食、夕食の配達とその間営業活動をしている。グループのみなさんにとお客様の紹介をお願いしていることもある。しかし彼自身の営業活動が原動力だ。たまらなく愉しいという。どんどんお客様が増えていくのだと語る。自分の会社を経営することはかつての勤め人の根性とは全く違う。パートの彼女は親身になって働いてくれ顧客が増えるたびに自分のことのように喜んでくれる。こんな人に出会ったことがない。
  • 自立への決意と実践

この話を徳山駅まで父親に替わって私をむかえにきてくれた、かつての教え子の青年から聞いた。人を育てることは容易ではないが、彼にはこの5年間、自分を育てる時間が必要だったのだろうと思った。青年を育てることには最低10年はかかるのだろう。そんな想いがない交ぜになりながら、話を聞いた。嬉しい時間だった。

自分の道を自分で歩き始めた人間、経済的にも精神的にも「自立」に向かって歩きはじめた彼の今を、かつて天命舎、進化経営学院で共に学んだ尚友・同期生・諸先輩、彼が卒業論文で全国各地の理念型経営者の人達に伝えたい。人にはそれぞれ必要な時間があった。(悦司)

理念探究会133号 

著書紹介「理念の時代を生きるⅡ」ブラー印刷岡田社長

この度の上梓、「理念の時代を生きる-II」黒田悦司著、「戦後70年を検証する」黒田悦司著、「森のフォーチャの暮し-II」黒田善子著、「BREAKTHROUGH-II」黒田倫太郎著
 月刊「森のフォーチャ」にこの5年掲載の記事を、今回纏めたものである。「○○○○-II」とあるからには「第2弾」、そして「この5年」というからには、その前の5年も纏めた著書を2013年に上梓されている。
企業や個人の「理念づくり」の支援をされている黒田悦司氏が、師と仰ぐ森信三先生の教え「成形の功徳」に従って作られたと「あとがき」に記されている。
これらの本の上梓はいわゆる「自費出版」である。
一般流通に乗せ、書店に並び、見も知らぬ不特定多数の(なるべく多くの)読者に読んでもらおうという「出版」がある。それと違い「自費出版」というのは、縁あるあの読者がどんな顔してどんな思いを持って読んでくださるかに思いを馳せる。そんな贅沢な「出版」である。前者の「本が売れるか、売れないか」の価値観とは異質なものである。
弊社は両方の「出版」のお手伝いをできる形態を持っているが、「お客様の自己表現・自己実現を支援する」という理念を掲げている弊社としては、「自費出版」という形態はその理念により合致するのである。
 奥様の10月18日の誕生日に合わせて上梓されたこの4著。そういえば、うちの亡き父も10月18日が誕生日だったよ。(岡田吉生氏ブラザー印刷社長)
理念探究会133号・理念の時代を生きるⅡ

  • 森のフォーチャに毎月掲載している記事をまとめた「理念の時代を生きる」を小冊子化して五年経った。私の古希を迎えた記念でもあった。今回七十五歳を迎えた。まことに時の経過は早いが、一方でこの五年間は私にとっても変化の年であった。
  • 一つは私の仕事を進める上での力強い協力者、同志でありかつ妻である善子が七十歳を迎えるのを機会、彼女自身も四十数年続けていた東京でのモラ教室を閉鎖することにした。同じ時期に私が続けていた茨城での進化経営主催養成塾ジュニア、シニアクラスを終えて、高松での開催に変更した。
  • 善子には、毎月一週間も続けてきた幾多の研修参加者へ食事の世話をしてもらっていた。二日間三食の食事の世話を六日間毎日続けてももらって来たわけで、毎回七~八名、多い時は十二~三名を超えるみなさんの食事の世話を二十数年間してもらった。善子なくしては、私の理念事業も不可能だった。心から感謝を述べておきたい。
  • この五年間で六名の理念制定者が誕生した。三十~四十代の経営者だ。この五年間、前半は理念探究の指導であり、三年前には既理念制定者も含めて理念実践会を立ち上げ、茨城と岡山で開催している。加えて鯖江での本格的な理念探究会も開始している。理念制定企業を対象にした快労祭も第十八回目を数え、完全に世代交代をした。まさに次代の経営者の養成、指導の最終コーナーをまわっている感がある。
  • 前回は三部構成であったが、今回は四部構成にしている。戦後七十年を迎えた日本の戦後史を検証したいと発意したことによる。昭和十八年生まれの私は正に戦後教育そのものを受けて育った。平易にいうと、日本の戦前の教育を知らないで育ち、大学生の時代の前後に、学生運動も直接、間接に体験している。労働運動も経験し日本の経済復興と高度経済成長そのもの、同時にバブルも体験している。しかしながら私達は日本の歴史について全く知らない世代で、このことが私自身には澱のように、心の中に引っかかっていた。戦後のGHQによる占領政策がいかにその後の日本に影響を与えたかということは私にとって知的保留事項だった。
  • 理念探究の過程で勉強してきた日本の特長と同時に部分的な歴史の断片を一貫したものに統合し筋の通った歴史観を、世界観を確立したいと切望してきた。戦後のGHQの日本への影響を知り、真実を捉えたいという課題に挑戦することが私とってのテーマとなった。三年弱の研究だが、いろいろなことがわかってきた。研究概念図を掲げてその分野の関連部門を読書し、ポイントレビューでまとめ、その上で記事として書くことにした。そしてこのテーマごとに森のフォーチャに毎月掲載した。今回、この「戦後七十年を検証する」として独立させ、纏めることにした。このシリーズは若い経営者に読んでもらいたい。そして疑問に感じたら自分で深めてもらいたい。
  • これから人生百年などといわれ長寿化がどんどん進んでいく。下手をすると長寿化社会とは長呪化社会になりかねない。医療費たるや膨大な費用がかかっている。国から支援を期待し生きることが果たしていかがなものかと感じている。残る人生で、心がけたいことは、前回にも書いたが老シロアリになることはせめて避けてほしい。国家の大難に遭遇したとしたらせめて次の時代のことを考えて「老人よ、銃をとれ」る老志士として生きたいものだ。

理念に添って生きる・あとがき

  • 創業して二十五年目を迎える。創業の当時十年でも長いと思っていたのだが、誠に早いものだ。その間、利益優先の経営とは異なる次世代型進化経営を追及してきた。世の中の経営を競争型経営(覇道型経営)と呼ぶとしたら、和道経営といえよう。その経営の核になるのが理念であることから、理念経営ともいえる。

創業にあたり特に親しかった人達五十名をお招きし、理念の制定宣言と創業記念パーティーをアルカディア市ヶ谷で行った。創業する「黒田の今後を祝ってやろう」というお気持の一方で「一体何がしたいのか」なんとも理解しがたいというのが感想だった。

  • 翌年、茨城県の霞ヶ浦の近くに自宅兼研修施設を建て、その施設を「天命舎」と名付けた。天命を探究する学舎という意味だ。以来、理念探究会としては二十数回開催し、四十数名の理念制定者(企業)が誕生した。理念を制定した人達、企業を中核にして一年一回集い理念企業快労祭も今年で第十八回を迎えた。天命舎で理念を制定した当時五十歳前後だった人も年を重ねた。経営の一線から退く人も出てきた。ここ数年、世代交代ということをひしひしと感じる。そして三年前に六名の制定者が生まれて、一気に若返った。今も理念探究者を三名指導している。
  • 若いというのは非常に楽しみだと最近特に感じる。若いということは成長するということだ。成長を通じて彼等が経営する企業そしてそこで働く人達も成長するということだ。こうして年を重ねることに、理念を制定した企業と関わる人達も増え続け正に互恵人脈がその和を広げてくる。
  • 世界全体が混迷の時代を迎えているが、この覇道の世界競争の世界からの脱皮を推進できるのは日本人をおいてしかないと確信している。日本に生き続けてきた和道の精神、手法を再体得し、企業経営や社会生活で実践し日本から世界に伝えることは気が遠くなるように思うかもしれないが、創業して二十五年経った中で、その事を実感している。
  • このあとがきを書いている最中に、TEKOサミットの会合が一橋大学の如水会館・東京であった。三ヶ月おきに開催されている。今回出席のTEKOの参加者のお歳は、八十五歳前後の方三名と私達夫婦。通常は九十五歳の方も交えて六名で構成されている。
  • 今回、企業理念制定からその実際についての報告が私に課せられた発表テーマだった。資料を制作し企業理念の備えておくべき要件から関わっている準大手企業一社、小企業一社の実際例まで報告した。二社の企業の社志、社訓(経営姿勢・就業姿勢)の実物をお見せし、理念に添ったその企業の制定後二十年にわたる企業の変遷、事業構造転換の話もした。
  • 発表後、敬愛する岡部氏は「あなたの仕事を見直した。九十歳まで続けなさい」と激励してくれた。現在七十五歳の私が八十五歳の先輩から言われた訳だが、先輩達に毎回お会いし、発表を拝聴していると、頭脳明晰、研究心旺盛、身体健康、かつ食欲も旺盛。九十歳まであと五年だ。今回の会の冒頭、二〇一九年度の開催日を四回決定している。

●帰りの道、上野の都立美術館で没後五〇年藤田嗣治展をみて、上京の際はお寄りする天麩羅「天庄別館」で食事しながら、寿命の話になり、このお店の最高齢のお客さんは一〇五歳でお酒も召し上がるという。今日の一日を振り返りながら、七十五歳を迎えたからといってよしとするには早すぎる。九十五歳を迎えたMランドの小河会長しかり、同年齢の李登輝元総統しかり。私達も理念に添って更に精進を続けてなければとガッツンと頭を叩かれた一日だった。二〇一八年九月末


脳力開発132号/理念探究会132号

脳力開発132号

沖縄問題番外編・翁長知事逝去にともなう雑感(8月31日)

 翁長知事が亡くなった。沖縄県南部の糸満市内にある摩文仁丘には黎明の塔や健児の塔など各県の慰霊碑や慰霊塔が建立され、平和祈念公園となっている。6月23日慰霊祭が執り行われた。この時、その会場で翁長さん顔をみた私の友人は、闘病後のやつれた姿に愕然としたと一報してくれた。新聞の写真をみても険悪な顔で、安倍総理を見つめていた。顔の相が悪い。人間の思いは顔に出る。その後、逝去され今、後継者選出でオール野党は多忙の中にある。

■翁長さんの本心・権力への執着

翁長さんは何のために知事になったのだろうか。うがった見方を承知で言うと、前知事仲井真知事が、後継者として指名してくれないことが予測されたことから、対立候補として選挙に出る。本心は権力への執着。そこにオール野党(共産党、社民党などが野合)支持推薦し、結果として知事に選出された。論点は一つ、名護市辺野古地への移設反対だ。

任期中、ことごとく前知事の判断を否定し続けた。今年、肝心の名護市選挙で敗退し、引き続き石垣での市長選挙で敗北、そしてその敗北に並行してオール沖縄の財界支持グループの2社金秀グループ、かりゆしグループ辺野古移設の賛否を問う県民投票をするようオール沖縄会議内で提案したが、受け入れられなかったことを脱会の理由に挙げ、オール沖縄会議から脱会すると表明した。共産党色が強くなりすぎた。

■与党とメディア二紙の締めつけ

翁長さんに対して県会議のなかでも与党、共産党、社民党の締めつけが強く、加えて沖縄タイムス、琉球新報の締めつけが大きい。オール沖縄にとって、知事が翁長さんであろうがなかろうが、自分達の言うことを聞いてくれる知事ならば、誰でもよい。極最近の本人の知事後継者候補の指名(遺言)に対して二人とも否定しているという。一方、自民・公明・維新は知事候補の絞り込みにも成功している。

■オール沖縄の崩壊

少し大胆にいえばオール沖縄はその政治的使命を終え、既に時代遅れになっている。社会党が社民党に衣替えして、今でも僅かな国会議員が残っているが、その政党としての存在価値がない野党であるにも関わらず、沖縄ではまだ、存在価値はあるたようだ。自治労、沖教組、大学、高校の教員たち、メディア、社民、共産、自由党など、既に時代遅れの反政府、反日活動は今度の知事選挙で終焉を迎える時期だ。

■翁長さんの人生

翁長さんは自分の人生を生きたのだろうか?知事候補になるころ、当人の政治活動スタート時代の姿勢・辺野古移設の姿勢をひるがえし、全く反対の立場を表明し当選した。だから在任中はオール沖縄、沖縄メデヘア等支持団体から辺野古移設反対の姿勢をどんな場合にも強制され、身も心も消耗しつくして、亡くなられた。そういう印象の翁長知事の3年6ヶ月だった。

この構図は、戦後70年をまとめてみて、GHQに今なお洗脳されているメディアや進歩的文化人の姿と重なる。県政与党が社民6人、共産6人、社大3人、諸派3、無所属9人の計27人、野党は自民が14人、無所属1人の計15人、中立は公明4人、おおさか維新2人の計6人。(8月20日記す)

翁長知事の遺言テープ(?)で指名された自由党・玉城氏

その後のニュースによると苦渋の決断で、玉城氏は立候補をするということだ。勿論、野党共闘だ。立憲民主党も支援すると報じていた。辺野古地埋め立て撤回を旗印にしての弔い合戦だという意向が強い。本土復帰(1972年・昭和47年)以来、政府と対立して46年経った。簡明に言うと沖縄は共産党、社民(旧社会党)、日教組、左翼系労働組合、そしていまだ残っている琉球大学の左翼大学教授たちに支配されてきた。換言すれば彼等実は中国共産党のしたたかな影響を受け続けてきいる。

反米、反政府ということは、反資本主義だった中国、ソ連の共産主義の夢であった。これは反資本主義=反帝国主義を旗印にしてきた中国とソ連の言い分だ。その中国がソ連と対立したとき、中国はソ連に対して反社会主義だといって非難した。その後ソ連、共産主義の東欧諸国の崩壊を迎え、今では最盛期136人を擁した社会党は北朝鮮の拉致問題が明るみに出て、凋落を続け2018年4名である。

オール沖縄の中心は実は共産党である

共産党は護憲派を装っている。改憲派の代表を自民党とすれば護憲派の代表はミニ政党に落ちぶれた社民党である。旧五五体制の当時の二大政党であったが今や対立政党とみずから言うのもおこがましい。にもかかわらず世の中には護憲派と称して大きな顔をしている社民党の連中が多い。その中身は、大学教員・弁護士・組合活動家・ジャーナリスト等などインテリが多い。こういう連中を動かしているのは共産党である。共産党ならびにその同調者、親近者である。共産党が護憲派の中心政党に見えるが、そうではない。偽りの仮面をしている。(参考図書・マスコミ偽善者列伝・加地伸行著)

オール沖縄・護憲派の真意

共産党こそ現日本国憲法を否定し、改憲を目指している。改憲(現行憲法反対)を堂々と唱えた過去がある。その最大の理由は「天皇を否定、皇室を否定する」ことが、共産党の使命だからである。しかし、日本において天皇、皇室の廃止などおぼつかない。だからオール沖縄などと偽って、内実は中国、韓国、北朝鮮に媚をうり、沖縄から米軍を撤退させることが使命になっている。辺野古移設反対の真意はここにある。社民党やその同調者の真意はここにある。

  • 今までもこの古い過去の構図が続くであろうか?沖縄県民にも確かに問題はある。しかし、次第に学習してきた県民は、おそらく玉城氏を選ばないであろうと私はこの時点では予測している。(2018年8月30日)

 

理念探究会132号・「情けは人のためならず」

情をかけておけば、それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る。人に親切にしておけば必ずよい報いがある。★補注:情をかけることは、かえってその人のためにならないと解するのは誤り。「日本国語大辞典 第2版」

日本人の美意識

脳の使い方において日本人は本質的にすぐれているのであろう。つまり美意識の要素をつかさどる右脳をよく使う。それが左脳とうまく融合して、非常にフレキシブルに物事を見る才能を生み出しているのように思われてならない。この才能が日本人の美意識の根底にあるのではなかろうか。見えるものを細かく分析して見ようとするのがヨーロッパ人である。分析して物事を理解する。だから「分かる」のである。これに対して、全体的に物事を掌握していく日本人の理解の仕方は「つかむ」というべきかもしれない。物事を道理で見ていけば、本質を間違えることはまずない。理屈は、木をみて森を見ずということになりがちだ。その点日本人は森全体をみる能力に長けている。(小河二郎・無尽蔵井泉)

  • 今回、日本人の長所を見直してみたい。時代は論理(ロジック)よりも情(感性・調和感覚)が見直されている。日本文化が見直されている。戦後教育は論理・合理を優先させてきたが、今は論理と情の融合(左脳と右脳の調和)が注目されている。この感覚は西洋人にはつかみきれないところがあるだろうが、近頃海外からの旅行客が増えて、日本文化、日本人が見直されてきている。この点を考えてみたい。

 

情の力」で勝つ日本  日下公人著 ポインパレビュー    

第一章「情の力」の神髄 ―日本人と西洋人の考え方は何が違うのか

以心伝心と直観力とアナロジーの威力

  • ギリシャ人も、自分が考えたことを他人に伝える話し方には二通りあると考えていた。一つは「たとえ話(アナロジー=類推)」で、もう一つが「論理(アナリスト=分析)」である。「たとえ話(アナロジー=類推)」とは、物事を直感的、総合的に把握して、似た本質を見つけることである。もう一方の「論理(アナリスト=分析)」とは、物事をいくつかの要素に分けて組み立てること」である。14
  • 芭蕉の俳句などもその機微を「情」で理解できる。つまり、日本人は全員が詩人の才能を持っているのである。やまと心を持った日本人とは、言葉でなく心でわかり、詩で表現し、行動で結論を見せる人のことである。そのすごさを、今こそ日本人はしっかりと認識したほうがよい。これぞまさに、日本の強さの根本部分なのだから。P17

順番は「情」「知」「意」

  • 戦前の日本では、学校教育でも「情」の教育を重んじていた。戦前の教科書を見ていると、「義理人情を兼ねそろえた人間をつくろう」という方針だったことがわかる。よく「知情意」といわれるが、当時の人たちは、子供たちには最初に「情」を教え、次に「知」を教え、最後に「意」を教えるようにしていたのである。P21

「共通の幅広い教養」があるから話が通じる

  • ギリシャの哲学者たちは、「論理的思考」と「直観的思考」の二つがあると考えた。ロジカルに人に伝えるときには、論理を積み上げていかなければならない。一方、直観的思考で伝えるときには、「たとえ話」で済む。考えたことを伝えるときには、この二つのやり方があるが、どちらの伝え方をしても、真理に到達する。P27
  • 日本人はお互いに「情」がわかるから、たとえ話ですぐに話が通じる。ロジカルに言うのが面倒くさいのではなく、たとえ話だけで十分に通じるから、ロジカルは必要ない。論理ができないわけではなく、両刀使いだ。日本の中小企業の社長には、たとえ話が上手い人が多い。聞いたほうは「なるほど」とすぐに納得する。理屈で説明されると、すぐに「なるほど」とはなりにくい。P28

なぜ「情感」を磨くと数学の問題が解けるのか

  • 普通、人が自分と思うのは小我、つまり肉体とその機能と申しましたが、もっとはっきり言いますと、自分の肉体、自分の感情、自分の意欲、それを自分と思う。それで非常に自我が強いと、人の世や自然のような大きいものは映らない。外界が伝わるのは、感覚までで止まる。欧米人は、自我が非常に強いからそうなる。(岡潔「日本民族の危機」)P35
  • ところが日本人は――明治までの日本人は特にそうですが――真我が自分だと思ってれば、もちろん、自我なんてありませんし、そうでないにしても自我は非常に弱い。それで大脳前頭葉にまで外界が伝わりうる。伝わりうる場合は、第二段階として大脳前頭葉で受け止める。そうすると、情緒になるのです。情緒というのは、時として、非常に強い印象を与える。P35

「俺が、俺が」では創造はできない

  • 岡潔さんは、西洋人は「肉体の働きが自分だ」と思っているのに対して、日本人は「心が自分だ」というのが本当だと思ってきたのだと述べ、その違いから、人間にとっての幸福や創造の秘密を解きほぐしていくのである。37

10、人が幸せそうにしているのを見ると、自分の心が喜びで満たされる。自分の心に深い喜びを感じるというのが、人本然の心であって、それがうまくいかないのは、心に濁りがあるからです。この、エゴイズムという濁りがあるからだと知って、それを取り去ることに努める。そういう人は、真我に目覚めた人と思います。P37

11、確かに「論理的思考」であれば、どこまでも「自我」からの発想ということになるが、「直観での判断」にとって重要なのは「いかに自我から離れるか」なのであろう。このあたりの機微は「情」というものの本質を考えるうえにおいて、非常に示唆に富んでいる。P41

「情の力」でこそ高レベルの仕事に到達できる

  • 現代の日本の子供たちはマンガやアニメを見て育っている。マンガには、「パトス」や「エロス」がたくさん含まれている。マンガを読みながら「パトス」と「エロス」を身につけている。ここは大きなアドバンテージである。
  • つまり、「エロス」や「パトス」が育っている人のほうが、相手の話をよく聞くようになる。心で感じるから深い理解ができて、相手と深いつながりができてくる。そして、そのようにして「情」でつながった相手だからこそ、「論理の平面」などを遥かに超えた高いレベルの仕事を成し遂げうるのである。P50
  • 「情」を理解できる日本人は、そのことを心の内なる密やかな喜びにしておいてもいいかもしれない。「情の力」は日本人にとって、大いなる優位点なのである。P52

第2章 「情」の戦略 -「知・論理」に頼らぬ日本的あり方 

  1. 「情の力」から生み出される能力に共通するのは、きわめて高度な情報把握能力と、きわめて高度な情報伝達力である。54,55
  2. かつて「情」「知」「意」の順番で教育をしていた文部省が、戦後はまったく違う教育をするようになってしまったわけだが、日本の子供たちはマンガやアニメを見て「情」を育んでいったのである。56
  3. 講談社を創設した野間清治が刊行した絵本は、紙の質も上等で絵も一流の画家の手によるものだった。ここまでこだわったのは野間の次のような思いがあったからである。「子供を愛さざればその国滅ぶ。国を興さんと欲すれば国民こぞってその子を愛せよ。子を愛するは天を敬する所以にして何ものを愛するよりも尊き行いなり。子どもを愛するの大事が教育にあるということ言うに及ばず」66
  4. 大人たちがこれだけ深い愛情をかけ、これだけの力を投入したから、日本の子供たちは「情」を存分に育んできたのだともいえる。そしてその伝統は、今もたしかに生きている。日本のアニメやマンガが世界を席捲したのは、日本が長きにわたって培ってきた文化風土が背景にあってのことなのである。67,68

第3章「情」の組織論 -情で繋がった関係性ほど強いものはない 

  1. アメリカはそもそも奴隷をこき使っていたような国である。そんな国の「使用人をこき使うための組織論」を、ろくな考えもなしに導入しても、これまで「仲間」意識で働いてきた日本の組織構成員は、心の底から納得できない。成果主義を単純に移植したような浅はかな会社は、すでに2000年前半の段階でガタガタになった。P109

実力主義の社会だからこそ「情」が大事

  1. 人間は「目新しいもの」に憧れる一方で「変化を恐れ」「惰性を守ろう」とする心も持ち合わせている。指導者が変化に飛び込んで行った場合、それに従う人たちの中には、反対したりする心が生まれてくる。そんな心のひだを的確に感じ取る力が「情」である。松下幸之助さんは、「経営で大事なことは、ことに当たってまず冷静に判断すること。それから情を添えること」と述べた。P120
  2. 「平等社会では『情』を重んじるのもいいが、格差競争社会では『非情』に徹することが大切だ」と考えている人がいたとしたら、考え違いも甚だしい。大切なことは、「仕事に厳しく」ありながら「人には優しく」あることである。P121

日本各地につくられた人情の団体

  1. 明治以降の日本では、例えば裁判においては「情理兼ね備えた裁判が良い」と言われていた。優れた裁判官とは、理だけで判決を書く裁判官ではなく、情を踏まえて、情理兼ね備えた判決を書く裁判官だ。そういう考え方で国づくりがされて、明治、大正、昭和の日本は出来上がった。常に「情」が大切にされてきた。P136

アイディアも発明も「情」と「意」からわきあがる

  1. エンジニアも、「情」を持った人の方がいい仕事をする。本田宗一郎さんが一念発起して、エンジンのピストンリング製造を志した。本田さんからすれば、いいエンジンを作りたいという目標が先にあって、勉強はその後であった。目標というのは、情」がなければ生み出せない。「情」によって目標が出てきて、「意欲」が生まれてくる。そこから発明が湧き上がってくる。P147

第4章 巨大なものに立ち向かう日本精神 ― 闘いに必要な気概と情

苦境にも日本人の使命と希望を語り続けられた昭和天皇

  • その戦争を押しとどめようと苦慮され、最終的に止めたのは天皇の大御心だった。責任はすべて私にある。文部百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。わたしの一身はどうなろうと構わない。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」このお言葉に、マッカーサーは驚愕し、胸打たれ、昭和天皇に敬意を持つようになった。p201

全国巡幸を歓呼の声で迎えた国民の「情」

2、昭和天皇は敗戦直後から日本全国を巡幸して国民を励ます、全国巡幸を始めた。GHQは天皇に危害を加える人が出るのではと想定していた。現人神といわれていた天皇が生身の姿を民衆の前にさらすのは、占領軍にとって都合のいいことだろうと考えていた。だが、実際に巡幸が始まると歓呼の声が鳴り続いた。「ああ天皇さまも犠牲者なのに、我々の事を本当にかんがえてくださっている」と、庶民たちはピンときた。天皇と庶民とは、日本の長い歴史が作り出した紐帯と数々の物語と「情」と「情」とでつながっていた。p208

3、圧巻は広島だった。原爆被害が生々しい広島に数万人集まり、君が代の大合唱の後、天皇がお言葉を述べられた。その直後、「天皇陛下万歳」の大歓声がわきあがった。これに高々と帽子を掲げつつ、丁寧に会釈で応えられる天皇。これが日本人の「情」である。アメリカはじめ、連合国はこの光景に圧倒された。日本は戦争に負けた。しかし、「情の力」で勝った。戦後、たちどころに日本が経済成長を果たし、「文明の質」において、アメリカを圧倒する存在になれたのは、このような「情の勝利」がベースにあったからこそなのである。p210

5章 近代が終わり情が復活する なぜ日本は世界にまれなる良い国か

  1. 日本はこれだけ長く歴史が続いてきた国である。連綿と続いてきた歴史の中で、経験が蓄積され、物語や言い伝えとなり、習慣となり、それは思考行動にも反映されている。江戸時代の和算や商業のあり方を見るまでもなく、論理的なこと、数値的なこと、計量的なことも高度な伝統を積み重ねてきている。一方で、人間社会には論理では片付かない隠された智慧や価値があることも知っている。p231

情愛深い日本人が求められる時代

  1. 江戸、明治、大正、昭和初期には、情緒深い日本人がたくさんいたが、戦後になると、世の中全体が成績ばかり気にするようになってしまった感がある。以前、東京都内で親が子供に言う言葉を調べた人がいる。小さい時は「早くしなさい」。小学校入学前ぐらいになると「◯◯ちゃんに負けるな」と言う言葉が1番だった。情のことよりも、スピードと成績が重視されるようになってしまった。 p243
  2. 情愛たっぷりの人間同士なら、直感的に話が通じる。「おい、あれ」と言うだけで、通じることもある。女性の部下に「あいつを呼んでくれ」と言ってしまったことがあったが、彼女は直感を働かせて、「この件だからこの人」と感じ取って適切な人を連れてきてくれたのだった。情の時代には、このような気働きや直感力こそが求められる能力になるということである。p243
  3. 情愛がない人間同士の場合は、箇条書きにして言葉で全部説明しなければいけない。だが、情の世界が復活すれば、話が通じやすくなる。そのスピードは、圧倒的であろう。242

横ばいのなかの幸せを世界が見習う

  1. ヨーロッパの近代は、合理化と効率化で、無駄に見えるものをなくしていった。しかし日本は近代になっても、無駄なものを残した。風流な暮らし、お月様や雲を友達にする暮らしがあった。日本には豊かな心の世界があった。p243
  2. 伊勢神宮に行くと、天にそびえた建築物は1つもない。川のせせらぎがあるだけだ。日本人は、これを国の中心と考えてきた。伊勢神宮は、論理的に説明する世界ではなく、感じる世界なのである。伊勢神宮の大宮司が、外国の要人を数多く伊勢の神宮に案内し、「何か深淵なるものを感じないかと問いかけたところ、多くの人が感激した・・・と言うところに情で理解してもらうことの本質がある。日本人は無理に論理にするのではなく、情で伝えるべきものは情の方法論で伝えれば良いのである。
  3. どんなことにも「ありがとうございます」と拝むことができるのは、日本人しかいない。世界の人は「何がありがたいのかわからない。変わった人たちだ」と見ている。もちろん日本人にも何がありがたいのかは、よくわからない。しかし、言葉では説明できなくても、ともかくありがたい。生きてること自体がありがたいのである。P245

脳力開発131号/理念探究会131号

脳力開発131号・戦後70年の変遷一応のまとめ

2016年1月から戦後70年を機会に、戦後史を2年半に渡り検証してきた。今年10月に「理念の時代を生きる」第二巻をまとめる計画なので、まだまだ研究を続けている、今までの研究の範囲で一応中間のまとめることにする。

■GHQの日本人の思考と精神の破壊

検証の過程でわかったことは、戦後GHQ占領の大目的は「日本人」の思考と精神の破壊計画である。戦後再び日本人が立ち上がれなくすることが大目的であった。そのために数々の施策が日本に対して実行された。その、総称が日本人に戦争に対しての罪意識扶植計画(WGIP)であった。これは作家江藤淳氏が指摘している。

  • 6年半に渡る言論統制

詳細を振り返ると、その、第一の施策が終戦から昭和27年4月28日の日本占領の終わるまで6年半に渡る言論統制があった。この言論統制の影響は非常に大きく、戦後73年目を迎えながらも今も続いている。あらゆるメディアに対しての徹底した検閲が行われた。GHQが「言論及び新聞の自由に関する覚書」を出したのは昭和20年(1945)9月10日、連合国最高司令官の指令という型式で出された。続いて9月21日「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」が指令された。

  • 30項目のプレスコード

1・SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判、2・極東国際軍事裁判批判、3・GHQ日本国憲法を起草したことに対する批判、4・検閲制度への言及、5・アメリカ合衆国への批判、6・ロシア(ソ連邦)への批判、7・英国への批判、8・朝鮮人への批判、9・中国への批判、10・その他の連合国への批判、11・連合国一般への批判(国を特定しなくとも)、12・満州における日本人取り扱いについての批判、13・連合国の戦前の政策に対する批判、14・第三次世界大戦への言及、15・冷戦に関する言及、16・戦争擁護の宣伝、17・神国日本の宣伝、18・軍国主義の宣伝、19・ナショナリズムの宣伝、20・大東亜共栄圏の宣伝、21・その他の宣伝、22・戦争犯罪人の正当化および擁護、23・占領軍兵士と日本女性との交渉、24・闇市の状況、25・占領軍軍隊に対する批判、26・飢餓の誇張、27・暴力と不穏の行動の煽動、28・虚偽の報道、29・GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30・解禁されていない報道の公表

★ブルーの部分に注目していただきたい。

  • 膨大な検閲組織

1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。上記の項目を基準に、規制された。この言論統制が6年半に近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。並行して、NHKを通じて「真相箱」などを通じて国民への罪意識扶植計画(WGIP)、日本人の洗脳作戦が続いて行ったわけです。

食うためとはいいながら唯々諾々として検閲に専念した。その後、名簿が発見され2013年11月5日NHKで放送された。

 

太平洋戦争史・東京裁判への批判禁止

  • 1945年12月8日より10回にわたって連合国司令部記述として全国の新聞紙上に掲載された。「国民は完全なる歴史を知るべきだ」「軍国主義者の行った侵略を白日に」などというGHQの趣意により宣伝占領政策の一つとして1946年4月に刊行された。これらの宣伝に対してもGHQに対する批判はプレスコードによって言論統制されたため、批判、反論、検証は許されず、国民はこの事実を知らない。
  • 極東国際裁判=東京裁判は1946年5月3日から1948年11月12日まで行われたが、既に刊行されている太平洋戦争史に添って判決が下されることになっていか。プレスコードにより、メディアは批判できない、国民は知ることが出来ない。正にGHQのシナリオどおりに日本国民が洗脳され続けたわけである。
  • 東京裁判自虐史観

戦後の進歩的文化人といわれる人達はこの東京裁判の判決を「真実である」という前提で、若い人たちを指導し教育する。またGHQにコントロールされているメディアを通じて、新聞紙上で意見を述べ、物事の判断を進めるわけである。「何をか言わんや」だ。こういう事実に対して多くの人達は知らされていないし、知りもしない人達が多い。この現状こそGHQが望んだ国民への罪意識贖罪計画(WGIP)の効果である。

 

■言論と統制・メディアに対する徹底した検閲

  • 占領軍のサクラになったマスコミ

占領軍・GHQは日本の近代史のほぼ全体を共同謀議に基づく侵略の歴史として決めつけ、極東国際軍事裁判= 東京裁判をドラマティックに演出し客観的な裁判という型式を整えた。天皇に「人間宣言」を行わせ、「神道指令」によって日本人の宗教的中枢に打撃を与え、また衆参両院で「教育勅語廃棄決議」を行わせ、加えて、厳重なマスコミ検閲を行いながら、検閲の存在自体を秘匿することによって、占領期間中に日本には自由な言論がなかった事実を隠蔽することに成功した。

  • 新聞・雑誌、ラジオなど全てのマスコミは占領軍の仕組んだ検閲によってサクラ(GHQ

のお先棒を担ぐ)の役を務めることになる。その事実は国民には秘匿されたため、日本人はサクラ(お先棒を担いだメディア・新聞、放送局)に引きずられて、占領軍が誘導した解答(太平洋戦争史・言論統制とプレスコードに添ったGHQの見方)を繰り返すようになった。正に文字通り操られることになった。

  • 占領政策の根本矛盾

1946年現行憲法第二十一条第二項には「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」と定められているが、占領政策そのものが根本的に矛盾している。神道指令で、「国家と宗教の分離」という名目で神道を抑圧排除した。こうした矛盾の上に占領軍が主張する「民主主義」の理念にしたがって、表向きは日本の主権者である日本人の自由で自発的な意志を尊重するという建前で、実は勝者の意志によって日本人の思想改造しょうとした。日本はプロパガンダについて無防備であった。

  • 公職追放と共産主義

神道指令に引き続き、公職追放によって、新聞、メディアの世界、教育界(主要大学の学長、教授などの追放と左翼学者の登用)、教職員組合による教職員の労働者への意識転換、教育勅語廃止と日本の歴史の否定、従来の教育の全否定、経済界の主要経営者の追放と、欧米型経営システムの導入、共産党員の保釈開放による左翼運動の活発化、政治の世界、共産党、社会党の指導による労働組合の凄まじい左傾化が進む。

  • 「左翼にあらずん場マスコミ人にあらず」といった時代

終戦後、当時の学者、評論家にとって岩波書店から本をだし、朝日新聞に寄稿することがステータスだった。岩波から出される「世界」は学生たちにとっても必須の読み物であった。世間は彼らを進歩的文化人と呼んだ。彼等は、資本主義に否定的で「進歩」の先にあるのはソ連や中国の共産主義であると考えていた。「日本の伝統」を進歩に対立するものとして「軽視し、保守を反動」と見なした。

例えば主要大学ではマルクス経済学にあらずんば、経済学にあらずという風潮が蔓延し、学生たちはマルクス主義、共産主義の洗礼をうけることになる。影響を受けて学生たちは、60年安保、70年安保へと巻き込まれる。運動に傾倒し、一般企業に就職できない学生たちの一部は、学者、司法、教育、公務員、労働運動等などの道に進み、活路をみいだした。

  • 戦前の日本については東京裁判史観的な視点から断罪する

日本の「伝統」を「進歩」に対立するものとして軽視し、保守を反動と見なした。日本人自らが日本に誇りを持たないというGHQの狙いどおりだった。政治的には、日本社会党、日本共産党を支持し、反自民、反米国の立場を取り、現在(2018年)に至っても現行憲法の護持、非武装中立、戦後民主主義の擁護を訴え続けている。

 

■戦後メディア・政界・文化人の実態

現在2018年になっても、東京裁判を受け入れたのだから、裁判で示された歴史観を背負っていかなければならない。メディアのみならず大半の日本人は東京裁判の自虐史観を受け入れ、その史観から逃れることが出来ない。これこそ、GHQが作り上げた言論空間に呪縛されている証といえる。メデヘアの報道を通じて「勝者による強制」という印象を薄めて、敗戦国民の自発的自己批判の形をとらせていることに積極的に加担したことになる。

  • 洗脳から抜け出せない文化人達

戦後、GHQの言論統制をうけ、その後もサンフランシスコ条約の発効によって占領が終結した後も、メディアは自からそれまでの言論統制を続けることになる。なぜならば、条約全面講和を主張し「天皇の自発的退位を願った」東大教授南原繁をはじめとして主要大学の教授たちに対して、吉田茂は「曲学阿世の徒」と名指しで批判されたが、戦後も「政府に対立する」ことが戦後大学の教授たちの使命であるという意識は今も残っている。

  • 60年安保、70年安保と二度にわたる日米安全保障条約に反対した学生運動(私は丁度この端境期に学生時代を過ごした)も実態は純朴な学生が進歩的文化人、社会党、共産党、メディアの影響をまともに受け、反対運動こそ進歩的であると金科玉条のように信じた(洗脳された)結果であった。これは平和安全法制(平成27年9月30日成立)に関して反対運動を続けた一部大学教授や進歩的文化人といわれる人達の中に残存している。勿論、国会審議をボイコットしてデモに参加したと自慢げに語る政治家も沢山いる。反対するだけで、対案を出すことのない。安保闘争当時のかつての社会党、共産党と同じ構図だ。
  • 敗戦利得に執着する人達・人間は何故そうなるのか?

終戦後の舞台に立った人達・公職追放によってリーダーの役を担った人達はその後、善きにつけ悪しきにつけ、結果として敗戦利得者となった。自分が利得者になったことも自ら意識したことでなければ、その後のGHQの数々の施策におかしいと思って抵抗するであろうか?GHQの施策に従うことにためらうことはないであろう。戦後の混乱の中にあって、自分が利得者であったと認識することは少ないであろう。

  • GHQの仕事として検閲官になった人達は、殆どの人達は自分の前歴を隠すことになる。自分は検閲に関わりましたという人はいない。この例だけではない。政界・政党・政治家、財界、教育界、労働組合、メディア(新聞・テレビ・放送局)司法界、作家、文化人等など、全ての組織はその例からもれない。

人間はそんな状況にあったとき、自己保身に陥るのは理解できるが、その後、状況が大きく変化している現在でもその既得権益・敗戦利得に執着する人達も多い。その中でも、今もなお、反日を唱えるメディア新聞・テレビ・NHK、文化人などの罪は重い。

  • 社会党、共産党、労働組合、日教組などすべてGHQの洗脳計画に添って戦後の活動をしてきた。そして今もその流れの中で動いている。その根底には戦後の敗戦利得者として自己の存在があるということだ。日本全体もその影響から逃れことはできない。GHQの影響をうけたことを思考から無意識に削除している。

 

■財界にも危惧が生まれた・正論路線=産経新聞の成り立ち

あまりにもあらわな「親中・親ソ・親北」など社会主義・共産主義に無批判な世の中の風潮、「政府の反対する」ことがあたかも進歩的であるという風潮を助長する既存のメディア対して、資本主義を守り共産主義に対抗する「親米反共」のメディアが必要であるとの認識に立って財界が期待したのが産経新聞であった。

産経新聞のルーツは日本工業新聞という戦前からある新聞だが、今日「正論路線」を掲げる産経新聞が現在の編集の輪郭を明らかにするようになったのは、1958年(昭和33年)水野成夫が社長に就任してからである。

その後、1968年(昭和43年)に鹿内信隆が社長に就任し、親米反共、自由主義・資本主義を守る姿勢を色濃く打ち出す新聞になった。鹿内は日経連(日本経営者団体連盟)の初代専務理事を経験し、「経営者は正しく、強くあれ」をスローガンにしていた。戦後10年間日本共産党に指導され各地で過激な労働争議に対処した経験をもっていた。

昭和48年、産経新聞に保守派の文化人による「正論」というオピニオン欄をつくり、進歩的文化人とそのメディアに対しての議論を挑むようになった。

 

「リベラル」とは何か・麗澤大学教授・八木秀次氏

  • 現在、「リベラル」と称し称される人々は、かつては「革新」とか「進歩派」とか称し称されるはずだ。社会党・共産党は「革新政党」。両派に近い学者・文化人は「進歩的文化人」と称され、岩波書店の『世界』や朝日新聞を舞台に論陣を取っていた。「革新」も「進歩的」も「左翼=社会主義・共産主義」の別名だった。
  • いずれは社会主義体制へ移行すると信じ、現在を批判的に見ていた。学生時代は観念的にそうあるべきだ、そこに理想の世界があると浅解していた。世界的には東西冷戦が終わり、国内では北朝鮮が日本人拉致を認めた時期から、社会主義・共産主義への幻想は打ち砕かれ、「革新」「進歩派」と称することが憚(はばか)られてきた。
  • 欧州ではLiberalの意味は「自由主義的」というくらいの意味を持つ。欧州の「リベラル」は保守主義とも親和性を持つ。米国の「リベラル」は自由よりも平等や多様性を重視する。民主党も共和党も安全保障については殆ど変わらない。
  • 日本の「リベラル」は元々の社会主義・共産主義の空想的社会主義を奉じて米国よりも社会主義国を含む近隣諸国との協調を主張する。共同体・国家よりも個人、人権を重視する。経済成長よりも福祉や配分を重視し、憲法九条改正には何があろうが反対する。「リベラル」を称する立憲民主党、国民民主党の主張の濃淡の差にすぎない。(悦司)

 

理念探究会131号・靖国神社

お盆前に靖国神社にお参りした。年六回開催される第九回「やすくに活性塾」に参加している。妻善子の父親は大正三年の生まれで、第二次世界大戦に赴任先上海で現地召集された。神戸大学をでて、伊藤忠商事に勤務していた。善子は昭和二〇年一〇月十八日に上海で誕生した。昭和二一年四月一九日帰国。その年の十二月に罹患していた善子の父は結核で亡くなった。享年三一歳だった。彦根では護国神社にお参りしていた。

靖国神社にお参りした後、靖国教場啓照館で今回の講師「日下公人氏」の講義を楽しみにしていた。靖国神社にお参りすることは、今戦争で遺族となった肉親には人間として「当たり前」のことです。

善子は著書のなかで「成人してから毎夜、自身の枕元に一人の人間が座って、その姿に金縛りにあったようになった」と術懐している。「ある時、その人は自分の父親だと気がついた。ある時は兵隊の姿で枕元にジッと座っている。結婚が決まった夜から、父と思われる人は姿を見せなくなった。その後、何か困ったことが起きたとき、お願いしても一度も姿を見せてくれない。善子にとっては紛れもない事実だ。

今年も終戦記念日が訪れた。超党派で国会議員は参拝した人達もいるが、安倍総理は個人的に玉串を奉納し、閣僚も参拝した人はいない。総理の靖国神社参拝が中国、韓国との政治問題になったのは一九七五年の三木武夫総理大臣以来顕在化し、中曽根元総理は戦後政治の総決算を掲げ、一九八四年八月「閣僚の靖国神社公式参拝に関する懇親会」を発足させ、翌一九八五年八月一五日公式参拝を実現したが、中国などが猛反発して中止した。

以後の詳細は省くが、正にこの政治判断が日本の戦後史の核心に近い問題を含んでいる。戦後GHQによるWGIP罪意識贖罪計画により日本国民は洗脳され、その最先端きって加担したメディアがこの問題も、これから問われる「憲法改正問題」に対してもGHQの判断に従うことになる。

戦後七三年経ってもいまだ、独立国としての「憲法改正」に対しても反対を唱えるメディア、大半の憲法学者、「リベラル」を自称する政党等などいる。文字通り「反日」国家のように換言すれば、中国、韓国のようにヒステリックに反発している。

しかし、世界も徐々に変化してきている。かつては連合国に対して一言も反発することのなかった外務省の責任が今日を招いたのだが、安倍総理のここ五年半の任期中一五五回に及ぶ海外訪問と外交により、日本の戦後へのGHQの東京裁判の判決に対しての疑問と日本の主張に理解がすすみつつある。

話を靖国神社に戻そう。粘り強い安倍総理の姿勢により、冒頭に書いたように靖国神社に対しての海外、日本国民の理解が変化しつつある。遺族にとって靖国神社、全国各地の護国神社は自分たちの親や子供、祖父にお参りできる場所であり、また日本国民として公式に政治家がお参りすることになんら不都合はない。人間として極めて自然なことである。今回もお参りすると、沢山の若者たち海外の人達もお参りしていた。遊就館もいっぱいの人だった。

日下公人の講演はこの日本を守ってくれた「先人たちの心とこれからの日本について」というタイトルだった。

話の骨子は「英霊は私達を待っている。自分たちが忘れられることなく、国民が生きて暮らしている姿をみたいとおもっている。」巷間、「知、情、意」と言われ、西洋はロジカルシンキングが中心、戦後はとりわけ日本でも「論理が上で直感が下」と決めつける傾向が強い。日本人の強みは何か、と考えたときいの一番に挙げるとしたらやはり「情」ではなかろうか。

「日本は天皇ご自身の『情』の存在があったからだ。昭和天皇は戦争の責任を、すべて一身に引き受けようとされ、更に国民を力強く励ましてこられた」このお姿、覚悟がわからないと、昭和天皇の『情』の深さもわからない。(日下公人)

繰り返すがGHQがやって来た戦後のWGIPは靖国神社への参拝、憲法改正、東京裁判、言論統制、神道廃止、公職追放などなど、今なお影響を与えてきたが、もう一〇年もして団塊の世代がこの世を去るときには、日本はもっと世界から尊敬される国になっていると予感している。

真摯で誠意のある対外姿勢を貫き、キチンと日本人としての振る舞いを続ければ、混乱する世界の調和役としての使命を果たすことか出来ると今年の靖国神社参拝を通じて考えた。(悦司)参考文献・日下公人「情の力で勝つ日本」