経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

■理念探究会114号

■理念探究会114号
◎幸福は最初は不幸の形をして現れる
この言葉は隠岐の聖者と呼ばれた永海佐一郎博士の言葉である。
隠岐の西郷町に生まれ、漁師の父を海でなくし、母に育てられま
した。その後、いろいろな縁がかさなり東京工業大学教授、名誉
教授などを歴任され退官後「すべてのことは、母に代えられない」
と言う思いから隠岐の故郷に帰郷後も奥様を助手にして化学の研
究を続けるかたわら、永海賞の設置、道徳高揚・勉学奨励の講演
などを行われ青少年の育成に貢献された。
その永海博士が自分の体験を通じて「幸福は最初は不幸の形をし
て現れる」と言われているわけです。
森信三先生から「逆境は神の恩寵的試練なり」と言う言葉を教
わり、自分の体験を通じながらも進化経営学院創設の時に、創設
の辞として逆境練機・転原自在・経営進化・互恵共栄と石に刻み
ましたが、人生は思うように行かないもので、一生を通じると幸
福だと感じるときと不幸だとか、運が着いていないとか感じるこ
とは誰にでもあることです。
私は幸い城野宏先生に37歳の時にお会いし、楽しく愉快な人生
にするかどうかはすべて本人の精神姿勢「状況を変えていく原は
自分にある」という主体的な姿勢を確立・体験してから、逆境と
思ったことは一度もありません。そのことを進化経営学院では伝
えてきました。しかし、頭でわかること、言葉や意味を知ること
と、体験体得することとは違います。腑に落ちるまでにはいろい
ろと紆余曲折があります。

◎二人の息子の交通事故
丁度私が四十九歳の時、創業を決意、退社しようとした1991年
8月のことでした。長男倫太郎が、夏休みを利用して北海道にバ
イクで出かけ、交通事故に遭いました。そして一カ月後東京に帰
って来たとき、院内感染にかかっていることが分かり、再入院す
ることになりました。菌が無くなるまで、退院の目途は全くたち
ません。浪人して入った専門学校で再び留年することになるわけ
です。翌年のお正月に弟の竜が大学の進級試験勉強に疲れ、気分
転換にバイクで走っていて、凍りついた道で転び、足と手を骨折、
朝の牛乳配達の人に気がついてもらうまで寒い冬の夜を過ごした
ことがありました。
竜事故の日が丁度、皇太子殿下の婚約が整った日でした。
朝5時に警察から電話がかかってきました。死んでますか死んで
いませんか?という私の問いに、「死んではいませんけれど重症
です」という返答がありました。その朝、相模原まで出かけまし
た。息子は誠に申し訳ありませんでしたと謝り、それ以来妻善子
は毎日、倫太郎の入院している蒲田と竜が入院している相模原を
毎日通いました。母親の力は大したものでした。親しい人から
「黒田、お前は前世によほど悪いことをしていたに違いない」と
言われたものです。これらのことも私達にも子供達にも、素晴ら
しい体験になりました。自立への必要な道程だったのですね。

◎事業継承と試練
進化経営学院で学び、理念探究をし、制定にまでたどり着く人
は、少なからず大きな試練、逆境を味わっています。親の膨大な
借金を背負い理不尽な目にあいながらも、三年がかりで、理念制
定に辿りついた30歳初めの経営者、そして中堅のスーパーを親か
ら引き継ぎ、結局5~6年で閉鎖しその後、草むしりを事業とた
ちあげ、何人もの人を採用して日々、喜びの生活を仕事にしてい
る人。先日の理念実践会でも啓発会でも、正に「幸福は最初は不
幸な形をして現れる」体験をしている自分に気づいた若い経営者
との勉強会でした。文字通り、逆境に出逢い耐えてくる間に人間
は成長する。むしろ試練がないことの方が問題だとまで、言い切
る若い経営者が私の身近に増えてきました。

◎逆境は神の恩寵的試練
永海博士の言葉のように「真の幸福は、最初は不幸の形をとっ
て現れる」が、もしわれわれがそうした不幸を耐え忍ぶとしたら、
それによってわれわれはしだいに自己の「我見」から脱却を可能
にする。「我見」と呼ぶものは他でもなく自己を取り巻いている
モロモロの事物を「自己を中心とする」観点か眺めることの意味
である。
試練、逆境に遭いそのことに耐え忍んだ結果が、「我見」から
脱却し、振り返るとあのことがあったればこそ今があると言える
ことを体験する。それらの体験を数多く体験しないと自己の使命
にまでは到達できないであろう。
もしあなたに理不尽と思われることが訪れてきたとしたら、そ
れは神の恩寵的試練であり、真実の幸福があなたに訪れる時は遠
くないということですね。

●脳力開発114号
■極東国際軍事裁判
国内外の原爆に関する贖罪意識の芽生え
1.昭和23年1948年2月6日現在、極東国際裁判の最終論告、最終弁
論を控え緊迫した情勢にあった。民間情報教育局は以下のよう
に考えていた。
2.合衆国内の一部科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび
職業的社会運動家達の論説や公式発言に示唆され、日本の一部
の個人ないしグループが、広島と長崎の原爆投下に「残虐行為」
の烙印を押し始めている。さらに、これらアメリカ人の間に残
虐行為に対する贖罪の感情が次第に高まりつつある。280
●東條英樹の評価に対する危惧
3.東條は自分の立場を堂々と説得力を持って、陳述したので、そ
の勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。
この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねな
い。280
4.これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日
本が無法な侵略を行った歴史、特に日本軍が行った残虐行為に
ついて自覚させるべきだという提案がなされ、なかんずくマニ
ラの掠奪日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきで、
広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高
いキャンペーンを開始すべきだという示唆が行われた。281
●各界の影響力ある指導者に対する懐柔
5.本キャンペーンの基本方針、方法が決められた。ひとつは影響
力のある編集者、労働界、教育界および政界の指導者とつねに
連絡を密にすること。進歩的、自由主義的グループの組織発展
を奨励すること。282
6.特定の方法として新聞に対して民間情報教育局・新聞出版班は
日本人編集者と連絡を維持し、東條および他の戦争犯罪人裁判
の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよ
うに指導する。広島に関する報道も任務である。283
此処までは先月号に一部です。

●東條英樹「口供書」の主要論旨
7.「口供書」の末尾で東條元首相は次のように断じている。終わ
りに臨み私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないし
は当年、合法にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略で
もなく、搾取でもなかった。(中略)当年国家の運命を商量較計
するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つと
言うことがただ一つ残された途であった。285
8.しかし、破れ眼前に見るが如き事態を惹起した。戦争が国際法
上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如
何との問題とは、明白に分別できる二つに異なった問題である。
9.第一の問題は外国との問題であり法律的性質の問題である。私
は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時証人せられたる国際
法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が
本戦争をなしたことを以て国際犯罪ありとして勝者より訴追せ
られ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上
の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考
えた事とてない。
10.第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣私の責
任である。この意味における責任は、私はこれを受託するのみ
ならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するもので
ある。(中略)キーナン首席検事との四日間にわたる応酬を通じ
ても、全くその主張を翻さなかった。286

●東條英樹証言に対する朝日新聞の作為
11.証言台に上った東條元首相に対するウエッブ裁判長の尋問と、
弁護人側の再尋問は昭和23年1月7日午前11時15分をもってすべ
て終了したが、翌1月8日付の「朝日新聞」の「天声人語」欄
は、東條証言について次のように記した。290
12.▲キーナン検事の尋問に対して東條被告は「首相として戦争を
起こしたことは道徳的にも法律的にも正しかった」と答えてい
る。東條が法廷で何を言おうとそれはかまわぬ。思った通りそ
のまま言えばよい。東條一人が是非を悔いて、しおらしいこと
を言ってみても今さら何の足しにもならぬ。われわれもまた東
條の言辞を相手に論争しょうとは思わぬ。
13.▲外人記者も言っておる。「世界は東條の口許をみてはいない。
東條の言を聞いた国民の表情を注視しているのだ」と。
14.▲このごろ電車の中などで、「東條は人気を取り戻したね」な
どと言うのを耳にすることである。本社への投書などにも東條
礼賛のものを時に見受ける。沈黙している大部分の国民は、今
さら東條のカストリ的、ジ光様的迷句に酔うとは思われない。
が、一部に東條陳述共鳴の気分が穏見していることは見逃して
はならない。
15.▲それは歴史のフイルムを早く回すことだ。民主主義のプール
に飛び込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆も
どりするに等しい。それはまた、美しいワイマール憲法をつく
ったドイツ国民がナチスの毒虫にむしばまれてしまったことを
連想させる。(以上天声人語より)291

●GHQの言論統制とそれに従う朝日新聞の現実
16.民間検閲支隊の事前検閲の拘束を受け、常に民間情報教育局の
連絡将校と接触し「宣伝計画」の一翼を担わされたに違いない
「天声人語」の当時の筆者が、ここで一目瞭然な「奴隷の言葉」
を用いて語っていることは何ら驚くにあたらない。291
17.朝日新聞も天声人語の中でこのごろ電車の中などで、「東條は
人気を取り戻したね」などと言うのを耳にすることである。本
社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。一部に東
條陳述共鳴の気分が穏見していることはみのがしてはならない。
と指摘している。291
18.東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇
気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。こ
の分で行けば、東條は処刑の暁には志士になりかねないと危惧
しているこというGHQの視点と一致している。292
19.朝日新聞は民間検閲支隊と相呼応して、あるいは「客観的」報
道の名の下に裁判の真の姿を隠蔽し、あるいは日本の報道機関
を「指導」して、被告団の生命を賭した陳述に罵声を投げつづ
けさせたのである。292
(注)ここに見られるように既に朝日新聞GHQの意向に沿って真実
から目を背けさせ、世論を誘導し始めている。企業存続のために魂
を売り渡し、占領軍にすり寄っている。この姿勢が今も朝日の中に
脈々と引きつがれ自分たちの国を貶めることを続けている。中国に
すり寄り文化大革命の真実を隠蔽し虚偽情報をながし、慰安婦問題
の虚偽を蒸し返し、国連にまでご注進して日本を貶める姿勢は、既
に東京裁判の渦中から始まっている。
◎秘録・東京裁判 清瀬 一郎
東京裁判で日本人弁護士として獅子奮迅の活躍をされた清瀬一郎
氏の著書を繙いて、弁護人としての基本的な姿勢、連合国側の意図、
同時に言論統制に加担した朝日新聞等メディアの実体を検証します。
●無条件降伏に非ず
20.日本はポツダム宣言を受託したのであるが、その当時からこんに
ち至るまで、世間では無条件降伏という言葉が流行し、占領中に
はすぐに「何しろ、われわれは無条件降伏したのだからいたした
かない」といって、占領軍の占領軍の横暴ぶりを見逃す言いぐさ
としていた。しかし、東京裁判の弁護人は、初めから終わりまで、
ポツダム宣言受託は無条件降伏ではないことを断言し、これを弁
護の中核とした。32
21.ポツダム宣言第十条は「われら(連合国)は、日本人を民族とし
て奴隷化せんとし、また国民として滅亡せしめんとする意図を有
するものにあらざるも、われらの俘虜を虐待せるものを含む、一
切の戦争犯罪人に対してと、厳重なる処罰を加えらるべし」昭和
20年7月26日。32
●国際法が認めざる新罪名(事後法)
22.当時の戦争犯罪は何を意味するか研究した。そのころの国際法学
者たちは、宣戦布告をしたり、また戦争行為をなすこと自身を戦
争犯罪といっているものは一人もいない。
東京裁判いう「平和に対する罪」また「人道に対する罪」という
のは、同年七月の時点では戦争犯罪の範囲外である。かくのごと
き起訴は当然却下されるべきものである。34
23.この理論は、検事の起訴状朗読直後に裁判管理に対する異議とし
て申し立てられたから、これに対しての判断を下されければ手続
きは進行しない。そこで法廷はいったん閉廷し、数日間休廷して
会議を開いた。その結果、弁護側の異議はこれを却下する、却下
の理由は後に説明する、といって強引にその場を切り抜けた。そ
うして判決のときもそれと思われるものはなかった。34
●当時のメディアは無条件降伏したと宣伝
24.しかし、あの当時日本の新聞その他が、日本は無条件降伏したの
だと宣伝し、こういう議論は世間の耳に入らなかった。それより
時がたって、はじめて各方面からこの問題が取り上げられるよう
になった。34
25.占領中、マッカーサーの陣営内にあった、ウイリアム・シーボル
トという人が「日本占領外交の回想」の中で、当時としては国際
法に照らして犯罪でなかったような行為のために、勝者が敗者を
裁判するというような理論には私は賛成できなかった。(中略)
この最初の演出された法廷の行事が終わるまで、私は、不安の感
じに襲われ、ふたたび法廷にはもどらなかった。35
●裁判の権限なし
26.第一は当裁判所においては平和に対する罪、また人道に対する罪
につき、お裁きになる権限がない。ポツダム宣言の条項はわが国
を拘束するのみならず、連合国もまたその拘束を受けるのであり
まして、同条項で戦争犯罪人と称せざる者の裁判をなす権限はな
いのであります。50
●ニュルンベルグ裁判の原則適用は間違い
27.ここが非常に大切なこととも思います。ドイツとは、降伏の仕方
が違っている。ドイツは最後まで抵抗してヒトラーも戦死し、ま
ったく文字通りの無条件降伏をしました。わが国においては連合
国が日本本土に上陸しない間に、ポツダム宣言を発せられた。
28.その第五条には、連合国政府はわれわれもまたこれを守るであろ
うという条件で、わが国も受託した。それゆえニュルンベルグに
おける裁判で、平和に対する罪、人道に対する罪を起訴したから
といって、それを直ちに類推して極東裁判に持ってゆくというこ
とは、絶対に間違いであります。53
●動議却下される
29.米人弁護人ブレーク君や、ファーネスト君より、新たな平和に対
する罪や、人道に対する罪を本法廷憲章により創定することはで
きぬという論旨も付加された。動議提出より5日後なる5月17日の
午前に、裁判長は「管理に関するすべての動議を却下する。その
理由は将来宣明する」として、その場を切り抜け、進行を図った。
54
30.「将来宣明」というが、その後一向に宣明はなく、その時より2
年6カ月も経過した昭和23年11月4日の判決言い渡しの時に、7人
組判決(インド、オーストラリア、フランス、オランダの4国代表
裁判官を除く7人の多数派判決)はこの点に言及した。
「当裁判所ニュルンベルグ裁判所の意見とその意見に到達する推
論に完全に同意する」と宣言した。54
●十一人の裁判官の内、判決に四人の裁判官が反対
31.裁判官中でもインドのパール裁判官は「当裁判所の管轄権に異議
ありとする動機は当然受理されなければならないとする。」と述
べている。この理由は田中正明著「パール博士、日本無罪論」中
に解説している。56
32.思いがけなくウエッブ裁判長も平和に対する罪は事後法であるか
ら、これだけで死刑は適当でないという意見を述べた。
「どの日本人被告も、侵略戦争をする共同謀議したこと、この戦
争を計画及び準備したこと、開始したこと、また遂行したことに
ついて、死刑を宣告せられるべきではない」と朝日新聞記者団編
集「東京裁判」下巻175頁に書いている。57
(注)ウェッブ裁判長、パール判事、オランダのレーリンク判事、フ
ランスのベルナール判事
●マッカーサーも後に東京裁判は失敗と発言
33.「マッカーサーと共に日本にありて」の著者シーボルトは東京裁
判の方式や、裁判の合法性自体を疑問とし(同所130頁)、また
マッカーサー自身も米国上院の委員会で「東京裁判は失敗であっ
た」と証言したと言われている。57
以上、清瀬一郎・秘録東京裁判より
(注)昭和二十六年五月アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッ
カーサーは次の二つの重大発言をした。
①日本の戦争は自衛戦争である。②アメリカが過去百年に太平洋で
犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大
していくのを黙過してしまったことである。


■理念探究会113号

■理念探究会113号
◎その一、全人的決意の人は猪突猛進でなく 転換もまた決然となしうる 
3年ぶりにブラザー印刷の岡田さんを訪ねた。一年が経つのが早く、毎年年賀状をみると、「そうだこの人にあっていない。今年は会っておこう」という思いが沸き上がってきた、今年は会いたいと感じた人にあう計画を年間計画に組み込むことにしました。そう感じるのも、弟の突然の死や大学のグリークラブの同窓会のあと連絡がないので電話をしてみたら「入院をしている」「いつ退院なの」と問うと、「間もなく」という奥さんの言葉にほっとしていると、突然逝去しましたという報が入る。そんなことも重なると最近会っていない人には会って置こうということで、恵那訪問の帰りに名古屋に泊まり、翌朝岡崎を訪ねた。
彼は若くして白髪でダンデーな青年だったがもう、おつきあいして30年、MG・脳開・MT(マイツールパソコン)の経営改革を目指した同志でもあった。私も四十代の頃、東京は和環塾、名古屋は愛環塾など各地に経営者の勉強会を組織して活動して
いた。岡田氏は取り分け私が講師を務める「能力開発」を長く開催してくれた。私の主催する会や著書や諸々の出版を一手にお願いしている。「メールで今生のお別れに参ります」と言ったら、「私は百二十八歳までいきます」と返って来た。彼は私にとって正に「畏友」でいつも刺激を与えてくれる。岡田さんは「黒田さんの前だと何でも話ができるんですよ」と言ってくれる。

今回の話は面白かった。というよりも爽快だった。
企業の求心性と社員の自立性を平行育成
私も五十歳からの仕事の中心を「個人・企業の理念制定支援」においている。理念を制定して企業目的(志)を明確にすると、事業設計を立案し、実務の世界が始まる。
経営の目的をはっきりさせて、経営している経営者は実際には少ない。多くは会社存続と利益の創出が目的で・そのための努力を営々とつづける。また企業に勤める人たち(サラリーマン)の多くの人たちは、殆どの人が自分の生活を営むことが第一目的になっている。そして今の世界の状況は大きく変わり、大企業がサラリーマンの一生を保証してくれないにも関わらず与えられた仕事に精を出して日々を過ごす。
しかし、突然その企業が、あるいは業種が消滅するにも関わらず、その日まで安閑として過ごす。これを茹で蛙現象という。蛙はじわりじわりと温度が上がっているうちに外に逃げ延びる切っ掛けを失って、ゆで上がり一貫の終わりになる。
自立こそ、その人の人生を活かす
この3年間で最も変わったことは、売上げを減らし、社員を減らし利益体質に転換していることだ。彼には印刷業のなかで技術的に先端の仕事を進めてきた。17年前に2億円の投資をして、オンデマンド印刷に取りかかり、分社をつくり、取り分け社員教育にも力を入れてきた。それから教育にも力を入れてきた。以来十数年、意図したように残念ながら社員の自立性は強まらなかった。むしろ居心地のよい環境は
彼らの自立心の阻害になった。
ある時、仕事の関係で、一人の若い世代の女性に会った。彼女は会社の目指す方向については共感した。数年後、その彼女が縁あって、会社に勤めることになった。岡田さんが是非にと入社を勧めた。会社に入ると、目指す方向については共感するが、一人一人への指導が甘いと叱咤された。企業は利益を出すことも必要ではないか。今のままの体質でいいのかと黒字転換計画を進言し、彼はそれを了承した。以来3年、売上げ減少、人員減少、利益増の結果を生みだしている。
困難を乗り換えてこそ人は育つ
社員の居心地のよい会社は果たして、社員にとってよいことなのか?最近の電通の女性社員の自殺問題から、残業を制限するなど、まるで社員を子供のように扱う風潮がある。
電通の鬼十則を社員手帳から外したという。おかしな話しだ。
楽して儲かることなどない。西洋型の経営では最小労力で最大効果を狙う。そんなことが現実にあるだろうか。他人と同じことをやっていて最終のお客さんから評価されるだろうか?あり得ない。
お客さんは、「そこまでやるのですか?」という姿に感動する。社長歴17年。二度目の転換を愉快に進めている。
自立連帯経営
私が社員の自立を促す「自立連帯型経営」を推進する訳はそこにある。こういう言い方をするとはサラリーマンを長くつづけた人は立腹するかも知れないが、「個人の自立のないところにその人の生きがいは見いだせない」。人間は自分が独立して自分の食い扶持を自分で稼ぐところにその人の持っている能力の発揮がある。甘い
環境、居心地のよい、福利厚生などの整った会社を由とする風潮が、最近益々増えてきた。実はこのことは人間を堕落させる最大の要素だ。
岡田さんの敢然たる転進に喝采を送りながら、休日の社長室でワインを一本開けた再会だった。畏友・岡田氏いまだ衰えず。
◎その二、理念が転換を支える
 いままでの産業が消滅する時代
ある産業が永久に続くここはない。私が大学を卒業した1967年頃は繊維関係の仕事が産業界を風靡していた。成績の優秀な人は多くが、繊維業界を目指した。私の友人が入社した三菱レーヨン、日清紡、鐘紡、東洋レーヨンなど名だたる一部上場企業は今、仕事内容は殆ど以前の姿ではない。三菱レーヨンに勤めてきた幼なじみは、社名を変更し三菱グループで統合するようだと教えてくれた。大企業は企業転換も果敢に行う。今フジフィルムが化粧品分野で出色の業績を上げているのはご存じの方も多いだろうが、しかしかつて、かの有名なインスタントカメラのコダックは一瞬にして消滅した。
私が勤めていた電機業界の日本コロムビアは1998年リップウッドに身売りして今は細々と高級オーディー機器をマランツと経営統合して製造販売している。
1970年代は正にオーディオブームだった。高度成長と重なり毎年売上げを伸ばし面白くてたまらない時期も経験した。また会社再建で数年にわたり管理職の賃金カットやボーナスの代わりに、カラーテレビを十台支給されたことがある。
事業の転換への提言
私が会社をやめた理由は「経営幹部=役員」が自分の保身しか考えていないことを体験したからだ。私の事業構造の転換についての提案を、「なるほど、黒田の言う可能性も確かにある。しかし、まだわたしが役員をしている間は大丈夫だ」と一蹴された時に、私は日本コロムビアをやめようと決心した。そしてやめた後5年後日本コロムビアは事実上消滅した。そして同じく電機業界はビクターしかりケンウッドしかりパイオニアしかり。今はその産業自身が衰退している。幾多の名だたる銀行、百貨店、スーパーも消滅している。どんな産業も何れは消滅する運命にある。
事業転換の決意は容易ではない
私の関係する会社がある。ここ数年の傾向については赤字がつづき、この産業自体が凋落傾向にある。しかし、業態自身を転換させると決心することは容易ではない。それまで五年の準備機関と今後の見通しを立てた。中小企業の経営者にとって口で
言うほど簡単ではなく、決心を躊躇することだ。外部からは理屈はいえる。消滅の予想もいえる。しかし経営者にとってなかなか決断はしかねる。
理念は事業構造の転換を支える
社長は苦悶していた。数字の面を全面的にアドバイスしているS氏とここ数年事業構造転換を勧めてきた。解答の見えない相談。一月沖縄での経営合宿では、まだ決断ができない。そして2月社長とS氏と二人の合宿でも結論が出ない。一週間置いた合
宿で、社長が決然と意思決定した。その報告を改めて聞いた。驚いた。それまで幾多も議論した問題を解決する方向で結論を出した。企業理念のなかの社志に、

一、社会に役立つ自立した人材を育てます。そして経営姿勢に一、若々しい組織とし    て脱皮を続けます。という項目がある。社長は再びこの制定した理念に帰り、構造改革を決心した。その内容社長自らの口から伝えられたとき、私は理念の価値を再認識した。これから具体的に進めることになるが、グループ社員全員が一丸となって一
層、社会的自立性の高い人材に育ってほしいと心を熱くした。
私の尊敬する「出光興産創業者の出光佐三は次のように言っている。出光には「人間をつくることが事業であって、石油業はその手段である」というようないい方があるのです。出光には二つの定款がある。一つは法律上の定款であって、これは石油業を行うこと。もう一つは信念上の定款。「われわれは石油業をやっているのじゃない。人間が働けばこういう大きな力を発揮する。そして一人一人が強くなり、一致団結して、和の力を発揮したときには少数の人でも、こんな大きな力が現れるのだと
言うことを現して国家民族に示唆を与える」事業は目的ではない。手段だ。その上位にあるものが企業の目的だ。目的が明確ならば事業構造の転換も決然となすこ
とかできる。

 

■能力開発

■閉ざされた言論空間・東京裁判
■太平洋戦争史の影響
初めに、今回からいよいよ東京裁判について検証していきたい。東京裁判(昭和21年5月3日開始~昭和23年11月12日結審)は実は連合国側の意図が明確にあって、その方針に従って展開されている。しかし連合国にも進行に齟齬を来し、幾多の矛盾した点が出ているが、順次述べていきたい。今回は、東京裁判の疑問点をあげ、言論統制との繋がりをみたい。次回から各疑問点を検証することにする
太平洋戦争史の新聞掲載第一回は昭和20年12月8日に開始され、本として上製されたのは昭和21年3月30日である。裁判が開始されたのは21年5月3日。このことは連合
軍による裁判の方向は、上梓された太平洋戦争史に添う形で、裁判が展開され判決が出されたことを意味する。
■東京裁判に関する疑問
東京裁判を見るには、いろいろな疑問がある。疑問その一、法の不遡及ということを無視して、事後法によって裁いた。「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法で、法の不遡及については、日本側の主張に対して「その問題は後まわしにすると保留したまま、結審にいたるも、遂に裁判官側は答えなかった。清瀬一郎弁護士の管轄権論争は法理論としてはるかに理が通っているのだが、裁判全体が戦後審理に支配され感情にとらわれている
その二、判決文には「東京裁判はニュルンベルグ裁判の原則をそのまま踏襲した」とある。ニュルンベルグ裁判の「人道に対する罪」という訴因は、ユダヤ人迫害とか絶滅とかに対して設けられた。日本にはそんなものはなく、日本に遭ったのは通常戦争犯罪だった。ニュルンベルグの規定をそのまま持ち込んだので、ユダヤ人虐殺と南京虐殺とが同一視された。
その三、証拠の却下。判決文には次のようにある。「提出された証拠のうち、特に弁護側側によって提出されたものは大部分が却下された。それは主としてまったく証明力が殆どないか、全く可憐性がないか、非常に希薄な関連性しかないため、裁判所の助けにならなかったである」。
その四、多くの無辜の市民を殺傷した「人道に対する罪」は日本だけに課せられるべきものなのだろうか。裁判ではダブルスンダードが通用するものであろうか?原則には「無辜の市民を殺傷すべからず」とあるが、広島、長崎への原爆投下はこの規定に触れないのか。
その五、日ソ間には中立条約は有効だった。日本はソ連を侵略したことはなかったが、ソ連は日本を侵略した。にもかかわらず裁判にはソ連の堅持が出てきて「ソ連に対する日本の侵略」という糾問をし、ソ連判事がそれを認めた。強盗が判事になって「強盗は被害者である」と判定した様なものである。
裁判の記録「25被告の表情」
昭和23年4月5日「25被告の表情」として読売法廷記者が共著で裁判の進行を上梓している。清瀬一郎弁護士の簡閲による。この本は出版直後GHQによって発禁命令が出され、絶版。五千冊が世に出た。2008年復刻委員会が今日、出版して、誰でも読むことができる。
■日本人洗脳計画
●新聞は昭和20年9月1日より6年半にわたって、事前検閲が実施された。
日本人が知らされていなかったことが、毎回の裁判の様子が新聞で報道されるに従って、国民に影響を与えたことは言うまでもない。しかも、太平洋戦争史の新聞掲載と同時に裁判の様子も伝えられている。新聞掲載後、その後、ラジオによる「真相はこうだ」に引き続き「真相箱」が日本人洗脳計画に執拗に利用されたことがわかる。
以下、江藤淳・閉ざされた言論空間より
●学校教材に活用
1、太平洋戦争史なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、    歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した。また学校の教材として採用された。(全国の中学校に10万部配布され、副読本として使用された)264
●ラジオによる同時洗脳工作
2、新聞掲載と教材採用にとどまらず、精力的にラジオのキャンペーンを展開している。「真相はこうだ」がそれである。
「真相はこうだ」は「太平洋戦争史を劇化したものである。1945年12月9日から1946年2月10日まで10週間にわたって週一回放送された。同時に日本の放送ネットワークに「真相はこうだ」の質問箱を設けた。273
3、「真相はこうだ」の放送が終了した時点で、この質問箱は「真相箱」となった。この番組は41週つづき、1946年12月4日に終了した。この番組には毎週平均900通から1200通の聴取者からの投書が寄せられた。つまり、学校教育に「ウォー・ギルト・
インフォメーション・プログラム」を浸透させると同時に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限活用した。274
●東京裁判開廷に先立ちメディアに対する解説と指示
4、一方、戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。1946年6月東京裁判開廷に先立ち、記者会見を行い、国際法廷の目的、手続きについて入念な解説をした。275
5、A級戦犯については、全面的なWDIP遂行し、裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために注意をはらい、特に、検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられるようにしている。276
■極東国際軍事裁判
●国内外の原爆に関する贖罪意識の芽生え
6、昭和23年・1948年2月6日現在、極東国際裁判の最終論告、最終弁論を控え緊迫した情勢にあった。民間情報教育局は以下のように考えていた。
7、合衆国内の一部科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運動家達の論説や公式発言に示唆され、日本の一部の個人ないしグループが、広島と長崎の原爆投下に「残虐行為」の烙印を押し始めている。さらに、これらアメリカ人の間に残虐行為に対する贖罪の感情が次第に高まりつつある。280
●東條英樹の評価に対する危惧
8、東條は自分の立場を堂々と説得力を持って、陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。280
9、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に日本軍が行った残虐行為について自覚させるべきだという提案がなされ、なかんずくマニラの掠奪日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきで、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきだという示唆が行われた。281
●各界の影響力ある指導者に対する懐柔
10、本キャンペーンの基本方針、方法が決められた。ひとつは影響力のある編集者、労働界、教育界および政界の指導者とつねに連絡を蜜にすること。進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。282
11、特定の方法として新聞に対して民間情報教育局・新聞出版班は日本人編集者と連絡を維持し、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるように指導する。広島に関する報道も任務である。283
以上は、言論統制、事前検閲の上で仕組まれた施策であることは論をまたない。

 


■理念探究会112号

■理念探究会112号
経営計画熟考会・茨城・彦根
見通皆無 不安亦無 唯一予見 大局正解 (青色)
年末は茨城、そして年初は彦根で経営計画熟考会を開催しました。
昨年若手の経営者6名が理念を制定して初めての経営計画熟考会で
す。参加者の14名中12名の参加者が既に理念を制定している状況で
す。昨年はまだ、理念探究中の段階でした。
背骨が入るというのでしょうか、理念がバックボーンになると経営
計画の発想が異なるのですね。小欲から大欲へ、小事から大事へと
でもいうのでしょうか、2017年経営計画というものの、ここ一年のこ
とのみならず将来を視野に入れた計画が出来上がりました。

●混沌とした時代
現在は生産力が購買力をはるかに上回っている時代です。言い換え
れば物を作っても、基本的にはつくったもの全ては売れない時代なの
です。成長神話はとうの昔に終わっているにも関わらず、いまだに量
の拡大を追求しているのが世界の傾向で、この姿勢は止むことはあり
ません。
政治的には、世界はオバマからトランプ大統領の就任やイギリスの
EUからの離脱であるとかシリア難民に対してのドイツ国民の反発と
か、民主主義そのものが見直され始めています。お隣の韓国は問題外
の状態で、国家としての体をなすのか心配な状態ですが、いまだに、
事大主義から抜け出せないまま当分この状態は続くでしょう。また中
国の成長率の限界と南シナ海の強硬な軍事化なども混乱を招く要素に
なっているようです。

●変化は始まっている
日本はと言えば、安倍総理による長期政権の布石は就任以来60ヶ国
近くの訪問により過去日本が外交的に不足していた努力が実りつつあ
って、日本に対する理解も進んでいるようです。アベノミックス云々
という問題は、必ずしも正解はありませんが、この時代に、間違いな
く60年代70年代の世代の経営者は衰えを見せ、次の時代の産業が芽生
え始めています。
その時代の変化の真っ只中で、どう事業の変革を進めていくかが問
われています。私達にとって大事なことは、30代から40代の経営者が
自らの志にも基づいて自社を変革させることです。面白い時代になっ
たものです。
■脳力開発
GHQが行ってきた言論封鎖の実体(戦後民主主義・言論の自由の
虚偽)
GHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(W
GIP)」や「プレスコード」に触れない「専門家」が、戦後史や日
本国憲法について何を論じても、まったく説得力がない。本来であれ
ばタブーにとらわれず、自由な研究を行うべき大学などの高等教育機
関も、主流派はいわゆる「戦後レジーム」に従う研究者たちである。
真実を探求する研究者は「歴史修正主義者」というレッテルを貼ら
れて、異端視されてきた。日米とも、真実を追求することは疎かにさ
れてきた。戦後70年以上も一方的な情報に洗脳された体制、それこそ
が「戦後レジーム」と呼ばれるものだが、今もそれを維持したい人々
が、メディアや教育機関を恣意的に動かして、最後の悪あがきをして
いる。
戦後日本に対してGHQが行ってきた強制的な情報操作により如何
に、日本人が影響を受けてきたかを、解明していきます。まず、江藤
淳が発見したGHQの資料からその実際を検証していきます。

●閉ざされた言論空間・江藤淳
■終戦前からアメリカは日本の検閲を準備していた!!
1.通説によれば日本は敗戦・占領と同時に連合軍から「言論の自由」
を与えられたことになっている。しかし、実際には降伏文書調印か
ら2週間経たないうちに、昭和20年(1945年)9月14日午後5時29分を
期して、まず同盟通信社が占領軍当局から24時間の業務停止を命じ
られた。(言論統制の始まり)9
2.朝日新聞は9月18日午後4時から20日午後4時まで48時間の発行停止
処分を受けている。東洋経済新報は10月1日には9月29日号が回収
を命じられ断裁処分に付せられた。9
3.米占領軍が行った検閲については、一次資料に即して、私は(江藤
淳)自分の手で解明を試みるより手立てがない。ウイルソン研究所
での研究題目を「米占領軍の検閲とそれが戦後日本文学に及ぼした影
響」と定めジェンムズ・ビリングトン所長に連絡した。(昭和54年春
から半年間)12
●30項目の禁止事項を列挙した「検閲指針」を発見
4.10月24日午前中、一通の部厚いファイル、マッカーサーの参謀第二
部長チャールズ・A・ウィロビーが参謀長にあてた長文の覚書の草案
を発見した。1949年3月記。23
5.この日、「SCAPが憲法を起草したことに対する批判」「検閲制度への
言及」等など30項目の禁止事項を列挙した民間検閲支隊の「検閲指針」
を発見することができた。24
6.1944年5月19日マッカーサー宛の書簡に、「民間検閲」実施に、検閲
の対象を次の様に規定している。 ①郵便 ②電信 ③電話 ④旅行
者携行文書 ⑤映画およびスティール写真をあげ、郵便の中には、信
書のほか新聞その他印刷物、小包、俘虜との通信および赤十字を通じ
て行われる通信が含まれ、電信・電話には有線無線の電信電話および
ラジオが含まれる。41
7.占領軍当局が実施した「民間検閲」は1944年11月12日付けの資料
JCS873/3により、米統合参謀本部の命令によって行われた。すなわち
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の命令、意志により実施さ
れた。

■アメリカは日本での検閲をいかに実行したか!!
●連合国の日本に対しての認識
1.そこ(日本)にいるのはニューギニアの場合のような従順な原住民
でもなければ、フィリピンの場合のような親米的民衆でもない。ある
ゆる日本人は潜在的な敵である。(ブラックリスト作戦命令書・諜報
付録)160

●当初のメディアの認識
2.「新聞報道取締方針」は9月11日付けで日本政府から各地方総監、地
方長官に通達されたが、日本の報道関係は一向に服従する気配を見せ
なかった。同盟通信社が世界の通信社をリードして連日スクープを続
けていた。171
●ポツダム宣言に対しての日本の認識
3.同盟通信社以下の日本の報道機関は連合国と日本の地位は対等であり、
相互の関係は双務的であって、その契約はポツダム宣言および降伏文
書によって保障されていると確していた。換言すればポツダム宣言第
13項が明示するとおり「無条件降伏」したのは全日本軍隊」のみで、
政府と国民は同宣言の提示した条件を受託して降伏したのだと解釈し
ていた。174
4.9月15日民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は同盟通信社社長、
日本放送協会会長、情報局総裁、日本タイムズ理事長らの日本報道関
係を総司令部に招致し、次の声明を読み上げた。176

●100%検閲の命令
5.諸君をここに招致したのは、新聞とラジオが日本全国に配布している
ニュースについて命令するためである。最高司令官は日本政府に命令す
る。交渉するのではない。新聞、ラジオは100%検閲される。連合国に対
する破壊的批判も許さない。もし日本政府がやらなければ最高司令部が
自らこれを行う。178
6.9月18日、日本帝国政府は「朝日新聞」の発行を停止させ、本日(1945
年9月18日)16時をもって発効し9月20日16時まで継続させる。187
7.発行停止に命令の対象になった二つの記事。鳩山一郎の談話。「正義
は力なりを標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷
が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否
むことはできぬ。以下略188
8.10月1日「東洋経済新報」9月29日号の押収を命じられた。「進駐米軍
の暴行/世界の平和建設を妨げん」と題された論説(石橋湛山)「記者は
読者に深くお詫びしなければならない。米国進駐軍の一部に記者の予想
に反して意外に不良分子が存し、種々の暴行が演ぜられていることにつ
いてである。中略。米国はただにわが国の有形的武装解除を行うのみな
らず、また精神的武装解除を行うと称している。192

●6年半にわたって日本の言論空間を拘束
9.9月19日フーヴァー大佐は日本新聞遵則(日本出版法・プレスコード)を
発出。これは9月21日に公表された日本放送遵則(ラジオ・コード)と一対
をなす。9月10日付けの「新聞報道取締方針」に替わり、以後6年半にわ
たって日本の言論空間を拘束した。193
10.GHQは新聞と言論の自由に関する新措置が9月29日本政府に通達。新聞
とその発行者および新聞社員は「いかなる政策ないし意見を表明しょう
とも、決して日本政府から処罰されることはない」という特権的地位が
あたえられた。「いかなる」という以上日本にどのような不名誉と不利
益をもたらすものであってもよく、直接的に日本という国家そのものの
解体と消滅を指向するものであってもよい。この指令によって日本の新
聞は、国家に対する忠誠義務から完全に開放された。205

●新聞は、連合国最高司令官の完全な管理下
11.その代わり、新聞は、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完
全な管理下におかれ、その「政策ないし意見」、彼の代弁者に変質させ
られた。検閲が、新聞以下の言論機関を対象とする忠誠審査のシステム
であることはいうまでもない。205
12.かくの如きものが、あたえられたという「言論の自由」なるものの実
体であった。正確に、日本の言論機関に対する転向の強制にほかならな
かった。この時以後、日本の新聞は、進んで連合国の「政策ないし意見」
を鼓吹する以外に、存続と商業的発展の道を見いだし得なくなった。206
●「報道の自由」も「言論の自由」も存在しない
13.1947年1月7日の民間情報教育局新聞出版班長ダニエル・C・インボー
デンとの雑誌社80社との交換質問を通じて、出版関係者は「報道の自由」
も「言論の自由」も存在しないことをよく知っていたが、そのことを指摘
したり活字にしたりすることは厳禁されていた。209
14.外国権力ニ100%服従を強制されたジャーナリズムの実状にほかならなか
った。1945年9月29日午前11時30分を境にして、日本の言論機関、なかんず
く新聞は、世界に類例を見ない一種国籍不明の媒体に変質させられた。209
15.10月4日更に、「政治的、市民的、宗教的自由に関する制限撤廃」指令を
出し、①政治犯人の即時釈放、②思想警察の廃止、③内務大臣と警察首脳
の罷免、④治安維持法以下市民的自由を制限する一切の法令の廃止または
停止、の四項目骨子とする指令が出された。この指令が東久邇宮内閣を総辞
職に追い込んだ。209

●事前検閲の申し渡し
16.10月5日午前11時新聞担当官ピーターズ大尉は朝日、毎日、読売報知、日
本産業新聞、および東京新聞の編集長を招致して、9月14日以来、同盟通信
社に対して実施していたニュースの事前検閲を5紙にも拡張実施する旨を申
し渡した。1945年10月8日から開始された。210
17.新聞・出版関係者にとっては、検閲者はCCD(民間検察局)正体も定かで
ない存在に他ならない。しかし新聞の発行を続け、出版を続けるということ
によって、被検閲者は好むと好まざるとに関わらず、必然的に検閲官に接触
せざるを得てい。そして検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく
闇を成立させている価値観を共有させられてしまう。221

●生殺与奪の権を握っている者たちへの「恐怖」
18.検閲官の側における「邪悪」な日本に対する「恐怖」と被検閲者の側にお
ける闇の彼方にいて生殺与奪の権を握っている者たちへの「恐怖」。表の世
界の開放は影と闇の世界の黙契を支える「恐怖」の裏付けをえて、日本人の
「精神まで立ち入り」これを変質させる手がかりを掴んだ。222

■江藤淳が見つけた30項目の報道規制 (一部省略)
1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判批判
3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4.検閲制度への言及
5.アメリカ合衆国への批判、
6.ロシア(ソ連邦)への批判、
7.英国への批判、
8.朝鮮への批判、
9.中国への批判

●日本人の伝統的価値の組み換え
19.ここで、意図されているのが、古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的
な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない。こうして、
日本人の周囲に張りめぐらされた新しいタブーの目のうちで、被検閲者と検
閲官が接触しそれを秘匿する行為を重ねているうちに被検閲者は自ら新しい
タブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価
値体系を破壊すべき、「新たな危険の源泉」に変質させられていった。この
自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用が戦後日本の言論空
間のなかで依然として現在もなお続けられているのである。242

●太平洋戦争史による広範囲にわたる洗脳
20.戦争の真相を叙述した「太平洋戦争史」と題する連載企画は、CI&E
(民間情報教育局)が準備し、参謀第三部の校閲を経たものであった。この
企画の第一回は1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどのあるゆる日本の日
刊紙に連載された。戦争を始めてた罪と歴史の真相を強調するだけでなく、
特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。163

21.太平洋戦争史なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定すると
ともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した。C
CD(占領軍民間検閲支隊)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝
文句である。また学校の教材として採用された。(全国の中学校に10万部配
布され、副読本として使用された)264

●ラジオによる洗脳・「真相はこうだ」
22.CI&E(民間情報教育局)は新聞掲載と教材採用にとどまらず、精力的
にラジオのキャンペーンを展開している。「真相がこうだ」がそれである。
「真相はこうだ」は「太平洋戦争史を劇化したものである。1945年12月9日か
ら1946年2月10日まで10週間にわたって週一回放送された。同時に日本の放送
ネットワークに「真相はこうだ」の質問箱を設けた。
●真相箱による継続洗脳
23.「真相はこうだ」の放送が終了した時点で、この質問箱は「真相箱」とな
った。この番組は41週つづき、1946年12月4日に終了した。この番組には毎週
平均900通から1200通の聴取者からの投書が寄せられた。つまり、学校教育に
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を浸透させると同時
に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限活用した。274
●日本人のアイデンティティと歴史への内部崩壊
24.いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着
され、維持されるようになれば、CCD(占領軍民間検閲支隊)が消滅し占
領が終了した後になっても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、
いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何どきでも国際的検閲の脅威
に曝される。345


■理念探究会111号

逆境練機 転原自在 経営進化 互恵共栄

●昨年は私達にとっても新たな出発の年になりました。
3月には23回目の理念探究会も最終回を迎え、新たに6名の
制定者が誕生し六月の理念制定企業の集まる16回目の快労祭で、
理念制定式を行いました。
●累計で40社の理念企業を支援し、引き続き制定企業の社長を
対象にした理念実践会を、五月より茨城と岡山で開校しました。
30~40歳の社長と実践と研鑽の理念実践会を始めました。また
地元の経営者啓発会も始めました。
●5月には縁があってロシア・モスクワ、サンクトペテルブルグ
を訪ね美術館での盗難にあい、改めてほぼ安心して暮らせる日
本の環境の良さ一方、世界は寸分たりとも油断ができないと身
をもって体験しました。
●旅の初日に、古希を迎えた弟が軽井沢で急死したとの携帯へ
のメッセージに驚き、誰にも予告なく死が訪れてくる人生の摂
理を深く考えさせられました。夏には姉の主人が88歳で逝去し
ました。
●十一月には益田Mランド・小河会長のお孫さん吉彦氏の結婚
式に招かれました。式の冒頭、Mランドの未来構想をテーマに
講演会もあるユニークな会でした。
●会長94歳、矍鑠としたお姿に感嘆、90歳まで健康で生きるに
は取りくむべきテーマと健康がなければ、到底不可能。私は今
年取りくんでいる日本の近代史の世界の展開がテーマです。
●まずは、80歳を目指し、楽しみにあふれる構想実現に邁進し
ます。

2017年(平成二九年)  初春 黒田 悦司

■理念探究会111号
志ある経営者・人間尊重の経営・出光佐三の生き方

進化経営学院では、出光佐三の著書を課外テキストとして使って
きた。私が最初に出光佐三の著書に出逢ったのは、1971年「人間尊
重の事業経営」であった。そして「読書会で「日本人に帰れ」を読
んだ。振り返るとその延長線上に、独立創業があり、小説「海賊と
呼ばれた男」を進化経営学院の参加者に読んでもらい、以来、副読
本として「出光佐三・魂の言葉」「働く人の資本主義」「マルクス
が日本に生まれたら」「日本人に帰れ」「人の世界と物の世界」を
使ってきた。
今回映画「海賊と呼ばれた男」を妻と見た。何度も涙しながら私
達の目指す「理念ある生き方」「理念のある経営」と重なり合うの
を感じた。進化経営学院・理念にかかわる人達には、是非、見てい
ただきたいとお勧めしている。今回、『マルクスが日本に生まれた
ら』(初版1966=昭和41年)をポイントレビューした。
映画を見て、改めてポイントレビューを読んでいただければ幸いだ。

日本人の本来もっている生き方、会社経営の理念がはっきりと浮か
び上がっている。

●人間尊重をわれわれの金科玉条とせよ
いかなる主義も、必ずある部分真理を有し美点をもっている。こ
れらは日本の偉大なる国体に咀嚼され、日本国の栄養となり、日本
の国体に包容せられて真の発達をなす、仏教しかり、儒教しかり、
芸術文化しかりである。われわれは国民の一員として、外来の何も
のをも咀嚼し、摂取して国家の発達、国威伸長の資料とする準備を
しておけばよい。それには個人として切磋琢磨、国民として修養し
ておけばよいので、実力ある国民の要らないはずはない。自己を信
じて迷うべからず。(紀元二千六百年を迎えて・1940年)12

●日本の家族主義について(日本と外国の違い)
日本の家族主義は、親子兄弟仲良く暮らすという平和な、しあわ
せな姿として、世界に誇るべきものなのだ。家族の中に中心があっ
て、そのもとに、皆が愛情と信頼でつながっている。愛によって育
った人は、純情であって人を疑わず信頼するから、一致団結する。
これが日本の和の精神のもとであり、その小さな現れが家族主義、
大きい現れが日本国、無防備の皇室、無防備の国民ということだ。
その反対に、いじめられて育った子は疑い深く人を信頼しない。そ
こで個人主義になり、権利思想になるのは当然である。これが日本
以外の征服・対立闘争の外国である。46

●マルクスとぼくの考え方の相違
西欧民族と日本民族の違いということになるね。別の言葉で言え
ば「物の国」と「人の国」の違いということになる。西欧民族の祖
先は我欲・利己の先祖だ。我欲・利己のために善悪を問わず征服し
てしまう。この制服の形を最もよく表しているのが、城壁の中にた
てこもって、その周囲に国民大衆がおるという姿だ。西欧ではエン
ペラーやキングなどは城壁にとり囲まれその中に住んでいた。これ
は朝鮮や中国も同じ。はなはだしい例が、万里の長城だ。52

●出光には資本家の搾取がなくて、全員が経営者である
創業のとき日田重太郎さんが資金を恵まれて、「この金は返済し
ないでよい、利子もいらない」と言って、何もとっておられない。
ぼくも資本家の横暴に反抗して出発しているから、搾取などするわ
けがない。出光では従業員全部が経営者であると言える。従業員と
ぼくとの間に区別をつけていない。
仕事の上ではお互いに独立して、ぼくはぼくなりに仕事をしておる
し、従業員は従業員なりの仕事をしておる。
言い換えれば各自の受け持ちの仕事の上では、お互いに自主独立の
経営者だ。出光の若い人が「私は経営者です」と言っているそうだ
が、それは皆が権限の規定もなく、自由に働いているということで
あって、ぼくはこういう形が理想だと思う。74

●組織は心の中にある
組織や規則は形式であって、ほんとうの組織・規則は各自の心の
中にある。これをすべきかすべきでないか、やってよいか悪いかな
ど、各自が心の中で判断していかなければならない。組織や規則は
できるだけ少ないほうがよい。組織は形式として必要だが、形式に
縛られてはいけない。そして、これができるのは日本人だ。76

●日本の和
外国の経営は「和」ということがない。外国では権利を主張して、
お互いが対立しているから、譲り合うということはないだろう。そ
こで、対立している人を組織でつなぐことになる。日本人に言わせ
ると、それは烏合の衆であって、人数ばかり多く要し、しかも力は
弱い。日本人にとって組織は形式的なもので、お互いが心でつなぎ
合っている。それが日本の和だ。77

●尊重すべき人間は愛情と鍛練によって育つ
社員全員が経営者ということは、上に立つ人が、愛をもって従業
員を育てる、そして自ら率先して、努めて難関に向かってこれを鍛
練する以外にはない。愛によって鍛練する、鍛練は口先で従業員を
鍛練するのではなくして、上のものが身をもって先に立つというこ
とだが、そこに始めて尊重される人間ができてくる。出光では開店
から終戦、現在までぼくがいつも先頭に立って、社員と共に苦
労している。出光の若い人が強いのもそこに原因がある。85

●難関を歩く
こいういう行き方は、経済学で言う経済原則とは全然違う。経済
学では、最小の労力をもって最大の効果を収めるという、なるたけ
働かずイージー・ゴーイングで金を儲けるということになるが、ぼ
くはその行き方を採らなかった。ぼくは自ら選んで難関を通ってき
た。難関を通るということは、人を養成する。難関の道を歩いてき
た人は、次の難関も容易に乗り越えることができる。最小労力、最
大効果の原理は「物の国」の考え方、人を重んじる「人の国」では、
人を養成することが大事だから努めて難関を歩くと言うこと
になる。86

●出光の七不思議・馘首がない
出光には馘首がない。入社した社員は子供が生まれたという心持
になって、愛の手を伸ばして育てることになっている。親と子供の
関が親愛の情をもって結ばれるのは世界中の人も同じだが、他人に
対しても子供が生まれたという感じをもちうるのは、日本人の特徴
じゃないかと思う。ところが子供は難関にぶつかるとやめたがる。
子供が途中でやめるとその人は人間としては、既に落後しているこ
とになるとうい考え方からやめさせなかった。87

●やめさせないことが本当の親切
外国の経営学からいえば、一つの会社に織っても、高い給料をも
って迎えにくるところがあれは、そこに行く。そういうふうに、い
くつも会社を変える人が有能な人とっているようだが、遣りかけた
ことは、事の如何にかかわらず終始一貫やれ、というのが僕の方針
だった。ぼくはやめさせないことが、ほんとうの親切であるという
のでやめさせなかった。これが本当の人間愛じゃないかと思うんだ。
88

●馘首・定年制・労働組合がない
出光には馘首がなく、定年制もなく、労働組合もない。この3つ
の事は、人間を愛情で育てた結果だと思う。前にも言ったように、
愛情によって育った人間は非常に純情であるから、おたがいが人を
疑わず信念の念が強い。そして互譲互助の日本精神を知って一致団
結、和の精神、呼吸とかいうものを会得しておるから、少数で非常
に力強い威力を発揮することになる。これが、出光の今の形だ。90

●貧乏は社会の仕組みの問題か、心がけの問題か
貧困の問題を物の面からだけでは考えない。人間は食べなければ
生きていけないが、それは足りればよいのである。それとは別に心
の富がありはしないか。東洋では「足るを知る者は富む」と言うが、
自ら満足することが大切だ。「物の国」では、金とか物とか物質的
なものが、富となっているが、「人の国」では、心の富・心の豊か
さというものがあると思うんだ。心に善悪はなく、心はすべて真心
だと思う。真心があれば、人に親切にしたり、社会の為に尽くした
り、自分が譲って人を助けたりする、善い行為が出てくる。170

●心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな
よく物の面の豊かさを外国と形式的に比較して、まだ追いつかな
いというが、なにも外国に物の面で追いつかなくてもいいじゃない
か。それよりも外国の人に向かって、心の豊かさと心の富のあり方
に追いついてこい、それが平和に通ずる道だ、と教えてやったらど
うだい。心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな、とい
うことだ。171

●主義の奴隷になるな
民主主義の実体について、日本人は一度考えてなおさなければな
らないのじゃないかね。ぼくが考えるに、民主主義の「民主」とい
うことは外国には日本の皇室のような中心がないから、それに変わ
るべきものとして言い出したのじゃないか。民衆、大衆が主人であ
り、中心であると。いい言葉ではないが昔は「衆愚」と言ったもの
だ。愚というとひどいから「凡人」、「凡」。
大衆は凡人なんだ。「衆凡」をいくら集めても凡であることは変
わりない。衆凡を集めた政治は駄目だ。今日の議会政治の行き詰ま
りを見ればわかる。187

◎脳力開発
■朝日新聞の罪・吉田清治・慰安婦報道に見る虚報の連鎖

朝日新聞の紙面は私達1960年~70年の自意識過剰な学生にとって
は、常識だった。朝日ジャーナル、雑誌「世界」は理解できなくて
も持っていること、その情報を振り回すことが自尊心を満足させて
くれた。
学生運動は、ある意味で、田舎から都会に出てきた都会へのコン
プレックスをもった学生の多くが訳もわからぬまま巻き込まれてい
った。資本論、共産党宣言などは到底理解できる力もないにも関わ
らず、関心を持っていることこそ、自尊心を満足させてくれた。

戦後の有名大学の学長はGHQの日本への政策(日本の戦前を全
面否定し、対立を促進する)に乗って、自分たちの時代の到来と考
え、進歩的思想(共産主義、社会主義、マルクス経済学)に便乗し
て、戦前をすべて否定することが、自分たちの存在意義であった。
勿論大学だけではない、社会党、共産党に影響を受けた労働組
合運動、公務員、日教組もGHQの方針に乗って、活動した。メデ
ィアも新聞も、NHKもGHQの片棒を担ぎ、方針に添うことが、
GHQの規制の中で戦後存在できる安易な道だった。
日本が独立した後もGHQが規制してきた言論統制に則って、益
々自分自身を規制するという自縄自縛に陥って、現在でも自主規制
という言論規制をしている。現在から振り返ると、有名になる、時
代の先端を行く、自己の利益を優先させる一番安易な生き方だった。
今回は、その中でも一番虚偽の報道をしてきた朝日新聞の内実
を数々の資料から明らかにしてみる。GHQの指令に従って「自分
達の身守ることに汲々として、考えるということを放棄し、時代に
乗って生きた」メディアの代表として取り上げる。朝日新聞の内部
にある親ソ連・親中国の葛藤は、戦後朝日が発行停止に陥った以前
から内部に巣くっていた。しかも、国民に最も読まれた新聞が、虚
偽を平気で書き続けてきた罪は大きい。そしてその責任は誰もとら
ない。今も、左翼思想にかぶれて、生きている。

■吉田清治を称えた論説委員・伊藤律架空会見をしのぐ虚報
1.朝日新聞社は吉田証言を一九八二年にはじめて紹介した。そし
て虚偽を続けた。
2.2014年8月5日付で、朝日新聞朝刊で、取締役の杉浦信之が
「編集担当」の肩書で「慰安婦問題の本質直視」との主張で大きく
載っている。ある一連の記事の取り消しを明らかにした。
3.併合時代の朝鮮半島で、第二次世界大戦中に日本の官憲が組織
的に、この場合、済州島で集落、工場、漁業の現場を襲い、日常
の暮らしをしている多数の若い女性を突然、泣き叫ぶのもかまわ
ず連行し、従軍慰安婦として戦場に送り、将兵らへの売春を強制し
たというその関係の記事の取り消しである。12
4.吉田清治という人が講演、著作でとくに1980年代から90年代に
掛けて証言し続けていた話だった。朝日新聞はこの吉田証言を次
々と極めて大きく扱い、またその証言を踏まえた吉田清治応援の
論評も何度か紙面に載せていた。この吉田証言を虚偽と判断し、
吉田証言を扱った全ての記事を取り消すというのである。13

●共産党・伊藤律との単独会見の虚偽
5.1950年9月27日付で、GHQの指令で公職から追放され全国に
指名手配されていた日本共産党中央委員の一人の伊藤律と月光の
下の兵庫県宝塚市山中で単独会見したという「大特ダネ」を大々
的に報じた。これが、虚偽で大阪本社神戸支局の作り話だったと
いう朝日新聞社史でも前代未聞の大失態を引き起こした。13

●論点すり替え
6.杉浦論文は、強制連行の吉田偽証の報道は反省するが、問題の
本質は、多くの女性が軍の慰安婦になっていたという「人権侵害」
にあり、これは今後も追求し続けていくということを宣言してい
る。これは吉田証言報道の重大失態をぼかし、論点をすり替える以
外の何物でもない。13
7.2014年8月6日付、および8月28日付けの関連特集でも吉田証言
をとりあげ、女子挺身隊と慰安婦を混同した記事を除く慰安婦関連
記事は総じて妥当とする狙いが露骨であった。だが、多くのメディ
ア、とくに週刊誌からはこの姑息な幕引きに集中的に非難か浴びせ
られ、経営陣や編集部に対する内部からの批判の噴出など朝日新聞
社内の混乱状態も週刊誌、テレビで微細に報じられた。14

●福島原発・吉田昌郎所長命令違反の虚偽
8.その時期、2011年3月11日に発生した東日本大震災で東京電力福
島第一原子力発電所が危機に陥った時の状況を吉田昌郎所長が政府
自己調査・検証委員会に対して答えた「聴取結果書」を入手して、
事故発生時に所員らが所長命令違反の行動を起こしていたと、2014
年5月20日付誌面で報じた。15
9.吉田所長にも会っているノンフイクション作家門田隆将から門田
自身のブログや週刊誌などを通じて、反論が突きつけられた。朝日
新聞はこれらの批判に対して法的手段に訴えると脅かしながら抗議
したが、吉田調書を入手した産経新聞社がその内容を紙面で明らか
にすると、吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15

●社長の木村伊量・吉田清治証言記事の撤回が遅れを謝罪
10.さらに読売新聞社、共同通信社なども相次いでその内容を報道、
配信するに至り遂に朝日新聞社は吉田調書に関して2014年9月11日に
社長の木村伊量(ただかず)が記者会見して、記事の取り消しと謝
罪をすると共に第三者機関「報道と人権委員会」に審理を委ねると
発表した。その会見で慰安婦関係の吉田清治証言記事の撤回が遅れ
たことを謝罪した。16

■朝日にたなびくマルクス主義・戦後の社風を形成した人物達
11.広岡知男(1964年~1980年)16年間専務、社長、会長を務め、そ
の間六年間主筆も兼ねて朝日を左右した。笠信太郎(1900年~1967
年)を継ぎ、論説主幹、論説顧問として十二年間にわたり朝日新聞
の論調を方向づけた森恭三(1907年~1984年)モスクワ支局長、東
京本社外報部長、大阪本社編集局長、編集・出版担当専務取締役を
歴任した秦正流(1915年~1994年)125

●「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」
12.性急な共産主義革命を退けつつもマルクス主義そのものを否定し
ない、いわゆる「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」と
朝日新聞社内では見なされ、社内の思潮の主流派を形成していたこ
とは否定できない。125

●1946年社長退陣
13.1946年9、10月、終戦の年の秋に戦時中の報道・言論の責任を取
って朝日新聞社長の村山長挙、会長の上野清一をはじめ首脳部が総
退陣した。128
14.朝日新聞東京本社では二分し、険悪化した。そんな中での東京本
社編集局の職場大会で三九歳の論説委員の広岡知男が執行部に他社
(読売新聞を)が新聞を発行するのに、何故自社が発行を止めてど
うして勝てるのかと質問をぶっつけた。129

■ソ連派と中国派の対決
15.1960~70年代のソ連、中国の対立は朝日新聞社の上層部にも大き
く深い亀裂を生んだ。ソ連派の役員秦正流対中国派の社長の広岡知
男の衝突という形で激化し、秦の側に渡邉誠毅も加わり最終的に広
岡が社長退陣に追い込まれた。211

16.親ソ派の秦は1966年に、大阪外大の同人誌に多賀正史の筆名で投
稿している。「中華人民共和国では科学ではなく、宗教が支配して
いる。毛沢東思想という宗教が人民の容を紙面で明らかにすると、
吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15

●林 彪の異変を巡る報道
17.1971年9月から72年7月にかけての中国共産党副首席で毛沢東の
後継者の林 彪の異変を巡る報道戦で(この記事は追放されていた
産経新聞が一番早く報道)この大変事に目をつぶる朝日新聞は終始
内外メディアの後塵を排する醜態を晒した。220

18.1972年国交正常化迄に、68年修正された日中記者交換メモは政治
三原則と政治経済不可分原則の遵守が前提にされ、その三原則は
①日本政府は中国を敵視しない。
②米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀をしない。
③両国間の正常化を妨げない。こうした極めて日本の中国報道に日中
双方の合意として嵌められた。中国に関して日本の報道が自由を放
棄したに等しく、戦後の日本の国柄を貶め、否定した。222

●朝日新聞のみが中国国内に残る
19.文化大革命期に共同通信社を皮きりに他紙が次々と国外追放され
る中、朝日新聞のみが中国国内に残り、以降、産経を除く他社は中
華人民共和国国務院(中国当局)の台湾支局閉鎖の要求を呑んで中
国に支局を開局した。
●産経新聞は中国の要求を一貫して拒否
20.産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、結果として1967年
(昭和42年)に国外追放されて以降は、北京への特派員常駐を認め
られなかった。日本の新聞で最も早く林彪の死亡推測記事を伝える
など、むしろ政治的には中国を詳しく報道することとなった。

●社内の親中に対する批判
21.親ソ派・秦正流専務・文革報道を語るには、偏向報道の問題を避
けて通れない。多くの読者、社内から激しい批判を受けた「偏った」
報道が続けられたのはどうしてか猛省しなければならないと「えん
ぴつ」232号に書いている。226

22.第一点は、本社上層部に文革を高く評価した人がいた。上層部の威
をかり、かなり政治的に中国報道への介入をした人がいる。第二点は、
当時本社は「日中国交の正常化を急ぐべし」「台湾との断交もやむな
し」という社論う掲げていたが、社論と事物の客観的かつ公正な報道
をすることとは峻別するべきだ。227

23.1989年、出版局報に工藤は「中国報道の誤りは社長をトップにすべ
ての幹部が関係し、一般記者も苦々しい思いで参加し、或いは抵抗し
た構造を持つものだ。にもかかわらず、社として今日まで何の処置も
とっておらず、誰が責任をとったという話も聞かない。釈明さえすれ
ば、事実は風化するに任され反省をされず、各自の心の中で消えてい
く」と書いた。230

■共産主義国家を美化する
24.朝日新聞の紙面には、共産主義国家を美化し、讃える記事が目立っ
た。北朝鮮、カンボジア(ポル・ポト派)贔屓の報道もそうだ。あの
歪んだ中国報道も社長が広岡だったからというよりも、階級闘争によ
る共産主義社会の到来を予告するマルクス主義を善、マルクスの命名
した資本主義を悪として、階級闘争の歴史法則によって善が悪を滅ぼ
すというおとぎ話に影響された人が社内には少なくなかった。232

25.中国全土で民衆虐殺が進行している時、朝日新聞首脳は、虐殺側の
中国首脳と、繰り返し単独会見を行いっている。毛沢東政権にとって
朝日新聞社はまことに都合のよい宣伝媒体だった。236

●歴史の事実が証明
16.秦が心酔したソ連はその後1992年忽然と歴史から消え、広岡が擁護
し続けた中華人民共和国も次第にその実態が明らかになった。秦も広
岡も朝日新聞社の上層主流は歴史を完全に見誤った。社内における中
ソの亜流達の相剋も深刻だった。211

参考図書・崩壊・朝日新聞 長谷川熙ひろし、死の淵を見た男吉田昌郎
と福島第一原発門田隆将、朝日新聞・日本型組織の崩壊・朝日新聞記者
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