経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発193号/理念の時代を生きる193号

脳力開発193号・青少年合宿卒業生須田耀介君の旅

ロンドン・オランダ

■2カ国目ロンドン/イギリス

2日目は、私が10月から通う会社EYの本社見学。EYの本社はロンドンの中心を流れるテムズ川沿いのオフィス街にある。テムズ川沿いは観光客だらけで、ここを毎朝出勤するのは辛いだろうなと感じながら歩いていた。EYオフィスの建物は想像していたものよりも小さく、日本の東京オフィスとほぼ変わらない内装であった。人種の構成比率に違いはあれど、社内の空気感や顔つきは似たものがあり、ここまで社風を統一できるものなのかと驚いた。

 

■ロンドン探索

現存する大学の中で3番目に古いと言われ、ハリーポッターのロケ地でもあるオックスフォード大学に行った。歴史ある荘厳な建物に圧倒された。写真の食堂は昼時にオックスフォードの学生が使用しているらしい。このような大学と比較すると、日本の私立大学の学歴は何の意味も無さないと思わされ、肩書きに驕らず努力しなくてはと強く感じた。

夜、ロンドン・ルートン空港からスコットランドのエディンバラへ。

18:00発のフライであるため余裕を持って16:30に空港へ到着。しかし飛行機が遅延で20:00発とのこと。飛行機の遅延てなんだ?と思いながらも空港で20:00まで待機していたがさらに遅延の告知があり22:00に。結局飛行機が出発したのは24:00で、エディンバラ到着は2:00頃となった。夏にも関わらずにエディンバラは肌寒く、長袖が必須だった。街灯は少なく、小説家コナン・ドイル、JK・ローリングが育った街であると聞いていたためかなんだか不気味な印象を覚えた。朝、昼は気温と景色が非常に素晴らしい場所であった。ぜひ皆さんも訪れてほしい。

 

■3カ国目オランダ/アムステルダム

エディンバラから飛行機で1時間半、オランダのアイントホーフェン空港に到着。空港からオランダ首都であるアムステルダムへ移動。アムステルダム駅は東京駅と似ていたが調べてもどこにも繋がりはないようだった。

オランダといえば風車、ということで風車を見るためにアムステルダムの北西にあるウォルメルという街にバスへ移動。バスに乗車すると一番後ろの5人掛けの席に3人のアジア人男性が乗っていたため、何となく居心地が良く私も最も後ろの席に座った。バスが出発して5分、日本語で「日本人ですか?」と話しかけられ、まさかの日本人3人組と遭遇。

よくよく話を聞いてみるとベルギーの大学院生、ドイツの大学院生、日本から旅行中のコンサルタントの3人組だった。どこで出会った3人組かを聞くとさらにびっくりで、私と同じ慶應大学で出会った友人同士だという。私も慶應出身だという話と、ヨーロッパの旅行話には花が咲きあっという間に目的地へ。目的地も同じであったため私含めて4人で風車を観光することになった。オランダは標高が低く、面積の1/4が海面よりも低い位置にあることから水害に悩まされ、土地の干拓のために水を汲み出す動力として水車が使われていたそうだ。水車観光の後、アムステルダムまで4人で戻りそのまま夕飯までご馳走になった。日本でまた会う約束をしたため楽しみである。(須田耀介・続く)

 

 

理念の時代を生きる193号

企業の目的は利益追求ではない  

■理念実践会の報告

理念実践会は近況報告を仕事と個人の報告をしてもらう。一人五分から七、八分になることもある。理解を深めるために詳細を語ってもらうこともある。

毎回近況報告から始める。「男子三日会わざれば、刮目して相会うべし」という箴言がある。この姿勢で参加者は報告を聞く。経営者養成塾ジュニアコース、シニアコースを人によれば数年経て、理念探究に進み理念を探究した上で理念実践会に至る。彼らは毎年、年初の経営計画熟考会とその後の年八回の理念実践会を継続している。何年も学ぶことを継続しているメンバーの会です。メンバーは互いを尚友として接している。

■尚友とは

「尚友」とは友を尚(たっと)ぶという意味で古来「読書尚友」というふうに使われている。何故とくに尚ぶかというに、道の上からいうのであり、その友人が道上から自分より一歩ないし数歩すすめており、従って自分はその友において大いに尊敬すべきものを認めるというとき初めて友を尚ぶとなる。(森信三)

■一日一語の輪読

その後一日一語を輪読し、その簡単な感想を述べてもらう中で近況報告のなかで気になった問題を「和談」をする。「和談」は答えを出すためではない。その和談の中から自らの気づきを大事にする。今回は中でも下記のふたつの箴言を取り上げます。

十月十二日・夫婦関係

夫婦のうち人間としてエライほうが、相手をコトバによって直そうとしない、相手の不完全さをそのまま黙って背負ってゆく。夫婦関係というものは、結局どちらかが、こうした心の態度を確立する外ないようですね。

十月二十六・人間を知ること

人間を知ることは現実を知ることのツボである。わたくしが人間に対して限りなき関心をもつのは、生きた人間こそ無量な「真理の束(たば)」だからである。

 

■社員の突然の退社

山本卓哉;柳井さんのところに一気に二人入ってきたことは、経営者としてうれしい反面、閑散期の仕事の割り振りやお金の問題等、悩ましいと思いますが、人間力で人を呼び込む姿は眩しく見えます。

  • 自分に欠けているものは何か、今回なぜ従弟が退職を決断したのか。柳井さんを思い浮かべると原因が見えてきます。プライバシーやハラスメントに気を付けなければならない時代になっていますが、そこに気にするあまり、突っ込んだ話ができないようになっていました。
  • 自分はもっと社員とコミュニケーションをとらなければならないと強く感じました。問題が小さいうちに解決し、一日一語にもあったように、後手に廻らず先手、先手を打ってゆけると思います。薄々は感じていましたが、今回の理念実践会で自分が実行しなければならない課題がはっきりと炙り出されました。
  • ミーティングを始めましたが、全然自分の想いを伝えられていません。今まで学んできたことの何を話したら良いか迷います。皆が理解できるような簡単な言葉も思いつきません。しかし理念に沿った、和道の自立連帯型の企業にしたい想いはあります。自分や妻が思い描く夢やロマン、鍛冶屋さんや柄と繪のお客さんとの出来事や体験を社員と共有することで、皆が同じ方向を向いて次の山謙のステージに進むための土台づくりが仕上がると感じています。今回も人として経営者として良い学びが出来ました。尚友の皆さん、ありがとうございました。

 

柳井誠一;今回弊社にスタッフが2名加わったことに関して和談をした中で、改めて自らがスタッフとどのように向き合っているのか、どんな思いで接しているのか普段は業務の忙しさで忘れていた面を思い出しました。

一:朝は必ず顔を見て明るく自ら挨拶をするようにする

(その際、普段と違ったりすると顔の表情で分かる)

二:何か悩みがあったり、体調が悪そうなときは何気なく2人の時に聞いてみる

(家庭の悩みなどは他のスタッフがいる前では話しにくいので聞かない)

三;お互いの欠点などを指摘し合うのではなく、お互いに助け合うことを繰り返し伝える

四;スタッフが変える際「お疲れ様でした」とは言わず、「ありがとうございました」と言うこのように普段心がけていることを改めてここに書き出すことにより、何でもない小さなことかですが、こういう考えがスタッフのみんなにも広まればいいなと思いました。

一日一語では10月12日の部分で夫婦の話ではありましたが、『相手に何かを求める依存人格ではなく、自らでそれを受け止めて行動していく自立人格になる』という風に藤井さんがコメントされたのを聞いて、さすが藤井さん!と思い大変共感しました。(柳井誠一)

 

写真 一日一語

■「人間の力」と「物の力」・経営の目的は利益追求ではない 青

Q:出光発展の原動力は何でしょうか

■「人間の力」

  • 一口で言えば「人間の力」だ。「物の世界」の力は金であったり、法律、機構、組織であったり、権力であったり、数・理論であったりするわけだ。「人の世界」の「人の力」はどういうことが一番いいかというと、個人個人が対立していると弱い、マイナスだ。だからみなが団結しているということが、ほんとうの「人の力」で、その「和の力」を出光が発揮しているということだ。86

■互譲互助・和

  • 度々言うが、日本は神、皇室が相手の立場、大衆の立場を理解して物事を行うこと言うことを身をもって教えておられる。互譲互助、お互いに譲ってお互いに助けるという根本的な精神がある。外国では対立闘争、権利の主張ということになる。日本では互譲互助があるから、相手の権利も主張も自分の権利も主張も容れられるわけで、それがつまり「和」なんだ。86

行き詰まり打破の鍵

  • 仲良く平和に暮らすということなんだ。そこに出来たものが日本の伝統、道徳、家族制度なんだ。現在ではこれらが悪く言われているが、行き詰まった世界の人々が探し求めているものが、実はこれなんだ。87

■金の奴隷になるな

  • 「人の世界」の和を実行している。出光には対立なんてない。別の側面から言えば、金の奴隷になるなとか、法律・規制・組織・権力の奴隷になるなとか、あるいは数・理論の奴隷になるなとか言っている。人間である以上、奴隷になってはいかん。87

■学問の奴隷になるな

  • 学問の奴隷になったら日本人はだめだ。卒業証書を捨てて、学問は一つの要素にすぎないというような考えで、人間として力をつけるために油の小売りからやって体験者となって、ほんとうの人間の力を発揮する。そうしてはじめて学問も生きてくる。学問の奴隷ではなく学問を活用できるような人になれ。87

■家族温情主義

  • 家族温情主義は日本の国体の現れである。出光は石油業は一つの手段であって、人間の真に働く姿を現すのが出光の真の目的だから、他人が出光の家族主義に共鳴して出光に入ってくることは、大切なことなんだ。従来の特約店とかを廃してどれが直営か他人の経営かわからないようにした。他人が出光の家族に入ってもこのように仲良くやれることを現している。日本の和の精神、家族制度が個人経営の特約販売店にまで進んでいる。89

 

■感想 家庭も会社も人間を深く理解することが一番大事だ  

柳井誠一;「人の世界」と「物の世界」では家族経営について改めて考えさせられ、『仲間を否定せず、信じ、協力すること』、『相手の足りない部分をお互いにカバーしながら進んでいく』といったことを感じました。『人』というのも会社経営における重要な「特異貢献」であり大切な存在なので、これからも人を大切にし、共に成長したいと感じました。

 

藤井高大;今月の皆さんの近況報告と一日一語の内容について、自分に関わる多くの「人」について考えさせられました。

  • いつも当たり前のように側にいてくれる親や妻、子供たちである家族との向き合い方を再確認し、もっともっと感謝しなければいけない、そしてまだまだできることはあるなと感じました。皆さんそれぞれに社員さんたちとの関わり合いに変化が生まれているのだと、去る人があってもまた新しい仲間と巡り合える流れに入っているのでしょうか。私も家族と同様に社員たちや周りの仲間たちとのかかわり方をもっと大切にしていこうと再確認しました。
  • 「人の世界」と「物の世界」では、「和」の精神や力について考えました。「和道経営」という思向は今まで学ばせていただいてきたので理解できますが、実際は緻密な実践と継続力が必要ではないかと感じています。
  • 弊社も以前は社内間であっても暗病反言葉が飛び交った時期もありましたが、「不平・不満・愚痴・文句・比較」等を辞めよう、相手に求めることを辞めて長所を見よう、助け合おう、励まし合おう、ということを皆と共有することを地道に言い続けてきました。振り返ると少しづつではありますが前に進んでいる実感があります。実はこれらのことも理念に組み込まれていることなので、社内にも浸透しつつあるのだと前向きにとらえていき深めていきたいと思います。

 

堀越道弘;理念実践会に参加する事で、「物の世界」の日常から「人の世界」へ引き戻されて、自分が軌道修正される感覚になります。

  • 思えば十数年前、代表になり今まで通りの仕事を続けていましたが、だんだん受注も減り、問い合わせの電話さえ鳴らず、明日する事が無いぞという事態になりました。全く仕事が無くなったのです。丁度その頃に体調も崩し、人生初めての入院となりました。運が無いというか、タイミングが悪く、久々に頂いた新築の話も、いつ退院するのかわからない人には頼めないとキャンセルになりました。結局二週間ほどで退院できましたが、一ヶ月は車の運転も出来ず、日常生活もままならない日々でした。
  • その後、養成塾シニアで学ぶ事になり、顧客の名簿も無く、マップも無く、お客様のフォローは何もしていなかった事に気づかされました。早速、白地図に先代が建てた家の目印を付けると、自社の近所に沢山広がっていました。

■お客さんに目を向けていなかった

  • 当時は仕事=新築という考え方でしたから、一度新築したならもう、そこの家には仕事はない、と思っていました。代表が変わりましたという挨拶も兼ねて顧客訪問をしましょうとなった時は正直、キツイなぁと思いました。何の用ですか?と言われるかと思っていました。ところが訪問してみると皆さんニコニコと対応して下さいました。「ウチなんか忘れられたと思っていたよ」「お父さんは元気ですか?」先代が真面目に家造りをしてきた事がわかりましたし、お客様が周囲に沢山いた事に気がつきました。
  • 自分の都合だけ考えて、仕事が無いと嘆いていたのでした。こちらで勝手にお客様とのつながりを断ち切っていたのでした。お客様がなにを望んで、どんな事を考えているのか、お客様の立場になってみようとは考えていませんでした。家は建ててからが始まりでした。

■出光佐三の姿勢

  • 消費者の事を第一に考える出光佐三氏の、石油カルテルや政府とも闘い、困難な課題にも挑戦する姿。自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のために事をなす。日本人が古くから大切にしてきた互譲互助の精神。出来れば、難しい事は避けて楽な方に進みたい。かしこく上手に生きる事をよしとする現代人に、日本人にかえれと説いています。それが「人の世界」ですね。
  • 人間が真に働く姿を現して、国家、社会に示唆を与えるまでは出来ませんが、住まいの困りごとを解決し、暮らしやすくするお手伝いが出来ればと思います。そして何より、理念にそって、常に知り行う、知り行う、の積み重ね、「知行合一」を続けて行く事が大切だと思います。

脳力開発192号/理念の時代を生きる192号

脳力開発192号

青少年合宿卒業生の近況

今から13年ほど前から青少年夏季合宿を天命舎に通っている経営者の子弟を中心に3泊4日の日程で開催していた。孫も小学校1年生のなった時から参加している。その時の参加者も社会人の一年目を迎える年齢になった。孫も大学生になった。いずれ彼らに近況を書いてもらうことにしました。最初の登場は社会人になった須田耀介にお願いした。彼は慶應義塾大学総合政策学部しEYストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社に勤めることになっている。

報告・一月の海外旅行

  • アジアから出たことが無かった私は、単純な好奇心と海外を知らない不安から、なんとなく留学してみたい、と感じていた。就職まで持て余した暇に背中を押され2023年7/15、1ヶ月のヨーロッパ旅がスタートした。

目次 一回目ベトナム イギリス 二回目 オランダ ベルギー 三回目 フランス イタリア 四回目 スイス ドイツ 五回目 チェコ トルコ

■1カ国目ハノイ/ベトナム

成田空港からイギリスに行くためのトランジットで訪れた国。

太陽の光が強く、とにかく暑い。そのためかサングラスの着用率が日本と比べて圧倒的に高く、メガネ屋もそこら中に見かけた。

もう一つ特徴的だったのは、交通量の多さ。車道いっぱいにバイクが走っており、運転者は全員スマホ見ながら運転。

日本とベトナムの交通事故の数にどれくらい違いがあるのか知りたくなった。

空港近くの宿に泊まることになったが、近くのご飯屋さんでクレジットカードが使える場所が無く、お腹を空かしながら翌朝の空港での朝ごはんを待った。(翌朝空港で食べたチキンヌードルは空腹のおかげもあって感動するほど美味しかった。)

ハノイ空港からロンドン行きの飛行機に乗り込むと、隣の座席に座った40代くらいのおじさんが話しかけてきた。

ペルー出身で現在はロンドンに住んでいるコンサルタントだと言う。私もコンサルタントになるのだと話すと「英語を学べば道は開ける」とアドバイスをもらった。

おしゃべり好きのおじさんは5時間ほど喋り続けてた後、疲れたのか寝てしまった。

 

2カ国目ロンドン/イギリス

ロンドンの空港は入国審査が厳しいと噂されていたのでハラハラしていたが、無人ゲートで何事もなく通過。ロンドンで円とポンドの両替をしたが改めて円の価値の低さに驚いた。

暑くなく寒くなく、気候は最高なロンドン。初日は韓国出身ロンドン在住の女性が貸し出すAirbnbに宿泊したが、駅まで迎えにきてくれたり、テスコ(イギリスのスーパーマーケット)に寄ってくれたり至れり尽くせりで快適だった。

夜21:00、そろそろ寝ようかと外を見るも昼間のように空が明るい。夜22:00になっても変わる様子がない。サマータイムと言って昼間が長い時期だと知ったが非常に驚いた。

 

理念の時代を生きる192号

続・安倍晋三の歴史戦。西岡力・阿比留瑠比

■歴史認識問題は「匍匐前進で行くしかない」安倍総理

今回、安倍総理がかかげた「戦後レジームからの脱却」の10年を事実に基づき検証する過程であらためて安倍総理の戦略の揺るぎない姿を見ることができます。そして安倍総理の外交、政治のよって戦後GHQに洗脳されてきた日本の歴史を粘り強く世界に向けて、また日本国民に向けて訂正してきた事実・政治的業績が蘇って来ます。

国民が洗脳されてきた自虐史観から脱皮させるためには膨大なエネルギーと揺るぎない意志・決意・戦略が必要です。先月に引き続き今月も検討したいと思います。是非お読みください。先月の第二章と第四章の骨子を併記します。

第二章 平気で嘘をつくNHK ブルー

■元外交官田中均氏とNHKの嘘

■外務省のひどすぎる対応

■「サスピシャス・ガイ」疑わしい人間・田中元外交官

■被害者を北に返そうとした田中均氏

■福田康夫氏の嘘

■田中氏を持ち上げるメディ

 

第四章 外務省の敗北主義 ブルー青

■「敗北主義」だった日本

■戦わない外務省

■「クマラスワミ報告書」

■マスコミも政治家も

歴史問題に関する議論できる知識がなかった

阿比留;外務省が何故そうなのかというと、一つはほとんどの人が、基本的に歴史問題に関する知識がないからです。慰安婦問題も南京事件も、関心を持って調べたり追及したりしません。議論できるだけの知識がないから闘うことを避けた。ある大使経験者は「外務省は日本社会の縮図で、左翼もいれば創価学会会員もいる。まず省内でそういう相手言い負かさないと前に進めない」と話しています。p161

西岡:もう一つはこれまでに歴史問題で更迭された政治家がいっぱいいたということもあるでしょう。マスコミが言葉狩りの様なことをして歴史問題で辞任しているのを目の当たりにしているから腰が引けてしまうのです。自分たちを守ってくれる政治家が先にでて、外務省に「やれ」と言うのならいいですが「戦うことはしない」という方針が国是のようになっている。P164

■歴史認識問題は「匍匐前進で行くしかない」安倍総理

  • 安倍総理の戦略

「保守で10年つなぐ」・霞が関の官僚を変える

  • 阿比留:安倍さんは保守政権で一〇年つなげば霞が関の官僚は賢いから、保守派でなければ出世が出来ないと考えて保守の勉強をするだろう、そうすれば保守が日本全体に波及すると安倍総理は考えていたのです。その間に外務省の体制はがらっと変わった。P16
  • 阿比留:昔の外務省は歴史認識問題で他国と議論することを避けていて、比較的まともな考えを持った人ですら、慰安婦問題をはじめ歴史問題は頭を低くしてやり過ごそうとする姿勢でした。それが目に見えてはっきり変わってきたのです。P16
  • 西岡:安倍さんの側近は外務省の人たちに「総理は本気だぞ。しっかりやらないと飛ばされる」と檄を飛ばした。安倍さんは官邸のスタッフに対して同志を重視し登用した。「自分にとって同志こそ核心だが、官僚には同志は少ない。同志をずっとそばに置いてこういう風に仕事をやる」歴史戦、特に慰安婦問題で強力に戦える体制になった。
  • 阿比留:安倍さんは「村山談話」を引き継ぐと言ったが、一方で外務省には「村山談話を引用するな」と指示した。戦後七〇年の「安倍談話」によって完全に上書きし「村山談話」を無意味なものにした。
  • 西岡:「河野談話」が作られた過程を検証し、韓国側から「とにかく強制を認めて欲しい」と要請があったから、日本側は仕方なく、強制の定義を広げて「慰安婦の募集は本人の意思に反するものであったために強制だった」というふうに書いたということです。つまり、「河野談話」は外交的な文書で、歴史的事実を書いた文書ではありません。P19

■戦略的な体制作り・安倍総理の戦い方「先圧力・後交渉」

  • 西岡:安倍さんは戦略的な人で、第一次政権ができると、すぐに政府に拉致問題対策本部を造り新たに拉致問題担当大臣を置いた。今でも自民党本部玄関に「自民党・北朝鮮による拉致問題対策本部」という看板が掲げられている。国会にも特別委員会がある。自分一人の力だけではダメだというのが安倍さんの動き方です。p20
  • 西岡:「けしからん、制裁しろ」と、ただいうのではなく、「先圧力・後交渉」が重要です。これは安部さんの戦略的な考え方から出てきたものです。さらに官房長官時代に戦略的な法律が成立し、成立後は、政府、地方公共団体が取り組まなければならなくなった。P23

■安倍総理からの説明

  • 西岡:「オバマ大統領の政策は『戦力的忍耐』だった。しかし、これによって北朝鮮に時間稼ぎを許してしまい、北朝鮮に安心感を与えてしまった。しかしトランプ大統領は違う。ブッシュ大統領と同じように強い圧力をかけようとしている。アメリカのトランプ大統領に首脳会談で拉致の重要性を説明して、拉致問題解決で認識が完全に一致したことの意味は大きい。P29
  • 西岡:「交渉のための交渉はだめだ。交渉を始めるために制裁を緩めてはいけない。緩めるのは被害者を帰すという決断をした時だ。皆さんが期限を定めて解決を求めることは理解できる。それが北朝鮮への圧力となる。ただ、政府が期限を定めると、その期限が過ぎたら交渉を打ち切るとか、軍事攻撃をするとか、かなり厳しいことを行うことが前提となる。だから期限を定めない。理解してほしい」このように考えているのだと安倍さんは説明してくれた。P30

■野党とメディアの侮辱・横田滋さんの発言

  • 阿比留:「北朝鮮問題が一丁目一番地で考えていたのに、何も動いていないじゃないかというような発言を、メディアを私も見て耳にしておりますけれども、安倍政権が問題なのではなくて、40年以上も何もしてこなかった政治家や、「北朝鮮なんて拉致なんかしてるはずないでしょ」と言ってきたメディアがあったから、ここまで安倍総理、安倍政権が苦しんでいるんです。安倍総理、安倍政権は動いて下さっています。P34

■バイデン政権のブルーリボンバッジ・日本の国家意思を研究

  • 西岡:菅総理は「バイデン政権は菅政権が何を望んでいるか研究を重ねている。ブルーリボンは私を含む日本国民が一番喜ぶだろうと考えたのでしょう」と述べています。日米の間で拉致が重要課題として位置づけられたままであるという証左です。
  • 阿比留:そのときのリーダーが何を重視しているのかというメッセージを打ち出すことは、非常に重要です。安倍さんはよく「国家意思を示すことが大事だ」とも言っていました。中国の習近平国家主席と会談した際には尖閣諸島をめぐって「日本の覚悟を見誤らないようにしたほうがいい」「私の島に手を出してはいけない」と釘を刺したように。P40

■歴史戦に取り込む部署・内閣官房副長官補室と歴史担当首相補佐官

  • 西岡:安倍さんは「歴史戦」について政府の中で専門で取り組む部署を作った。岸田政権の状況に不安を感じた私は、令和三年秋に国家基本問題研究所が発表した政策提言を持参し、高市早苗政調会長室を訪ねました。その政策提言「歴史認識に関する国際広報体制を強化せよ」はこのようなものです。

一 首相官邸の副長官補室で展開してきた「事実関係に踏み込んだ体系的歴史認識の国際広報」を継続強化せよ。

二 歴史広報における官民協力体制を一層強化発展させよ。

三 中国にも反論せよ。「戦前の日本はジェノサイドや人道に対する罪は犯していない」という事実を歴史広報の柱にせよ。

四 韓国の労働者、慰安婦賠償要求は国際法違反だ。一切譲歩せず、歴史的事実に踏み込んだ国際広報を強化せよ。P42.43

■安部元総理の死で変わった・岸田政権も腹を決めた

  • 阿比留:岸田総理の歴史問題への取り組みは安倍総理が亡くなる前と後では変わりました。安倍総理の国葬儀の弔辞で、教育基本法の改正や防衛庁の昇格、国民投票法の制定など第一次安倍内閣の実績を踏まえて「戦後レジームから脱却」に言及しました。岸田政権は外交・安全保障の考え方は同じです。歴史認識でも、その方向性は大きく違っていないと思います。何より、左派マスコミや文化人が一番嫌った「戦後レジュームからの脱却」という言葉を用いたことに、腹を決めたのだなという印象を受けました。P47

■レールに乗れば・国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画を閣議決定

  • 阿比留:対米外交は安倍さんが敷いた路線を踏襲されています。親中派の林芳正さんを外務大臣に任命してアメリカに警戒されましたが、2023年ワシントン訪問の時バイデン大統領に大歓迎されました。防衛費をGDP比2%にすると閣議決定したからです。P49
  • 西岡:岸田政権は二〇二二年「安保三文書」(国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画)を閣議決定した。防衛費増額する路線は21年4月菅総理訪問時にすでに大枠は決まっていた。その時の共同声明で「台湾海峡の平和と安定の重要性」が盛り込まれた。岸田政権に求められるのは、アメリカが自由世界を守るリーダーとしての役割を果たし続けるようアメリカを引っ張っていくことです。P50
  • 阿比留:中国がアメリカと全面戦争をするのは想定しにくいとしても、日本を攻撃することは十分に想定できます。台湾に侵攻する際には、台湾防衛のためだとして台湾の東側に位置する尖閣諸島も占領しようとするでしょう。沖縄本島の米軍基地を狙う可能性も高い。中国の今の動向は、日本にとって最大の危機です。P52

★安倍総理の構想した日本の意思を安倍総理亡き後、岸田総理の言葉とは裏腹に宏池会の林外務大臣を登用したり釈然としない姿勢が見られたが、世界の情勢変化に伴い、次第に腹を括ったようだ。九月の内閣改造にもその変化がみられる。

第五章 安倍総理の歴史戦

■「二五年戦争」1997年から25年

  • 西岡:慰安婦問題は1991年に朝日新聞が社を挙げて捏造キャンペーンを行い、翌年92年1月に宮沢喜一総理が訪韓したときに八回謝ったことで急浮上した問題です。一時は日本中が旧日本軍による強制連行はあったのだと信じてしまいました。それが、韓国にも伝播し、「これは使える」と考えた北朝鮮は、「韓国挺身隊問題対策協議会」を呼んで平壌で会議を開いたりしていました。左翼の勢いがつきすぎて、中学校のすべての検定済み歴史教科書に「従軍慰安婦」や「連行」あるいは「強制連行」という言葉が入ってしまいました。P166
  • 西岡:そして、1997年2月に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げたのです。今から25年前です。当時、自民党はリベラル勢力が全盛で、野中広務さんや加藤紘一さんなどが力を持っていました。安倍さんは一人で立ち向かうのではなく、中川昭一さんにトップになって貰い、「若手議員の会」が発足した。当時の名簿を見ると、菅義偉さんを始め衛藤晟一さん他が加わり、強制連行があったと主張する吉見義明教授や反対する藤岡信勝教授、石原信雄元官房長官、最後は河野洋平さんを呼んで徹底的に議論しました。P168

 

■安倍さんは最初から「でっち上げ」と主張

  • 西岡:勉強会を八回開催し、賛否の立場からなる講師のご意見、さらに資料を検討した結果、軍、政府による強制連行の事実を示す資料は、二次にわたる政府調査、各民間団体の執拗な調査によっても、まったく発見されなかったこと(調査の責任者であった石原前官房副長官も明確に証言、吉見教授もそのことは認めている)、従軍慰安婦騒動のきっかけを作った吉田清治氏の済州島での慰安婦狩り証言とその著書と、それを紹介した朝日新聞の記事、また朝日新聞の「女子挺身隊を慰安婦にした」との大々的報道、いずれもまったくのでっち上げである事が解りました。P169

 

■一人で戦った安倍総理・じわじわと切り崩していく

  • 阿比留:安倍さんは河野談話や村山談話を継承すると公言した後、「就任して直ちにこれらの談話を否定したら、公明党の存在や自民党内の勢力関係を見ても、政権はすぐに倒れてしまう。保守派からの批判は避けられないが、私たちは冷静に現実の政治情勢を見極め、今は着々と力をつけ、じわじわと切り崩していくしかない」と述べていました。安倍さんは常に政治情勢を冷静に判断し、一歩ずつ前進することを考えていたのです。P172

 

■「ネットがなかったら」・国民に直接訴えた

  • 阿比留:慰安婦問題で言えば、秦郁彦さんが済州島に行って調査し、その結果、強制連行の証拠はないことが明らかになりました。これを聞いた産経新聞記者で私たちの恩師に当たる石川永穂さんが、1992(平成4)年4月の段階で、社会面トップで記事を書きました。朝日新聞はそれを黙殺しました。P186
  • 西岡:二〇一四年、朝日新聞誤報認定です。ネット社会になって朝日新聞の誤報した慰安婦について、日本の名誉が傷つけられたという、批判がじわじわ広がって生きました。p186
  • 西岡:反安倍の急先鋒の朝日新聞が、嘘の吉田清治証言で批判を浴び、さらに東京電力福島原発の吉田昌郎元所長に対する聴取記録「吉田調書」で「所長の九割が命令違反で撤退した」と誤算して、大変な非難にさらされました。これで慰安婦問題ついてもやはり朝日新聞はおかしかったのだということが世間に明らかになりました。P187

 

■日本人が「性奴隷」を広めた

  • 西岡:韓国の通信社が12歳の小学六年生の女の子までが女子挺身隊として動員され、性の慰み者にされたという記事を報じたことです。女子挺身隊というのは勤労動員です。私が調べたところ、女の子の派遣先は慰安所などではなく、富山県の軍需工場でした。P193
  • 西岡:記事を書いた韓国の記者に会った。最初のころは日本の戦争犯罪はけしからんと思っていたそうですが、真実が分ってもそのままにしていたのは、本当のことを書いてしまうと韓国社会の中で自分自身が非難されてしまうと心配になったからだそうです。当時の韓国は左派が全盛期であり、今では考えられないような強い社会的圧力が存在しました。P194
  • 西岡:左派は慰安婦問題を海外に広げていった。一九九二年戸塚悦郎弁護士セックス・スレーブは俺がつくったと自慢している)がジュネーブの国連人権委員会に慰安婦問題を持ち込んだ。実は裏には日本人が関わっていたのです。そして国際社会に対するアピールで、日本は負けてしまったのです。P196h

★9月沖縄の玉城知事がジュネーブ国連委員会に持ち込んで「米国基地の存在が県民の生活を圧迫し、平和を脅かしている」と発言しようとしたのも関係NGOです。

 

■10億円という手切れ金・Moral High Ground(道徳的に優位な地位)

  • 阿比留:第二次安倍政権になり、日韓は2015年に「最終的かつ不可逆的に解決」することを約束した慰安婦合意を発表し、日本は元慰安婦支援のため設立する財団に10億円を拠出することを決まました。p197
  • 阿比留:日本政府は慰安婦合意の翌年夏、韓国政府が設置する財団に10億円を拠出しましたが、韓国側が合意を反故にしたため失敗だったとの見方が出ました。この件について安倍さんは、確かに合意は破られてしまいましたが、日本が外交上Moral High Ground(道徳的に優位な地位)になったのは事実です。P199
  • 阿比留:今でも10億円拠出を批判する人がいます。しかし政治や外交においては100対0で勝つことはありません。外交では十分に勝っていると思いますから、拠出は良かったと思います。P201

第六章 70年談話・日本も反論する国へ

■「70年談話」を批判することは

  • 阿比留:安倍さんは、早い段階から西ドイツのワイツゼッカー大統領の、敗戦から40年目に行った演説「荒れ野の40年」に着目し、参考にする事を決めていた。それを骨格とし、談話では日本人が未来永劫謝罪を続ける必要がないことを示しました。P208
  • 阿比留:安倍談話では「日本では、戦後生まれの世代が、今や人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べられています。P209

 

■「70年談話」「村山談話」の上書き・謝罪外交との訣別宣言

  • 阿比留:「70年談話」は「村山談話」を上書きしました。欧米諸国のアジア植民地化の過程を描いた上で日露戦争が多くの植民地の人々を勇気づけた事など、これまでの政府文書にはない記述がありました。私たち日本人は謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がありますと、謝罪外交との訣別宣言をしたのです。P210

■安倍総理がさせられた尻拭い・教科書誤報事件と近隣諸国条項

  • 西岡:文部省が歴史教科書の「侵略」を「進出」に書き変えたといったマスコミの誤報により、中国、韓国は日本から経済協力資金を得る為の「反日」キャンペーンを展開した。日本は歴史問題が外交問題に発展すると、謝罪してしまう。宮沢喜一総理の責任で策定した近隣諸国条例が問題だった。P214
  • 阿比留教科書誤報事件と近隣諸国条項をきっかけに中韓への配慮が必要というコンセンサスが政府与党内に広がり、それが利用されて「自虐史観の日本」が出来上がった。その後、自民党が社会党、新党さきがけと連立し、村山富市首相を担いだ為、より左派色が濃くなってしまった。P218

■対中国「歴史戦」・南京事件は「ジェノサイド」ではない

  • 西岡:二〇二一年、中国のウイグル人に対する人権侵害を日本政府が懸念表明したとたん「南京事件こそジェノサイドだ」と日本を非難しました。国際社会や東京裁判でもジェノサイドとの認定はされていない、南京事件については「ジェノサイド」ではないという事実を広める必要があります。これを強化しなければ、中国はもっと圧力をかけてきます。岸田政権にはそのための備えが不十分である。P224

 

■「反論しない国」から「反論する国」へ

  • 西岡:韓国内の反日勢力はかつての十分の一くらいに力が落ちました。正義連の反日集会の参加者を慰安婦像撤去、正義連解体を求めるアンチ反日派の参加者数が上回るようになりました。安倍さんの蒔いたタネがようやく発芽して、韓国でも真実の上にこそ日韓の友好があると明言する人々が出てきました。P227
  • 西岡:挺身隊問題解決対策協議会(挺対協)の代表だった尹 美香(ユン・ミヒャン)は2016年韓国国会議員に当選したが横領で起訴され有罪判決を受けた。90年初めから一緒に運動していた元慰安婦の李 容洙(イ・ヨンス)は尹 美香を「慰安婦のための募金を使っていない」と非難して「挺対協」の組織は権威を失墜した。
  • 西岡:韓国が日本を批判することが永遠に続くのは、価値観の違いで避けられないでしょうが、安倍さんが日本の戦後を終結させた指導者だったと思います。謝罪を続ける宿命を断ち切って、「反論しない国」から「反論する国」に変わりました。P228

 


理念の時代を生きる191号

理念の時代を生きる191号

その一、理念実践会・「人の世界」と「物の世界」出光佐三

六月からの理念実践会の今年のテキストに出光佐三の「人の世界」と「物の世界」を」使っている。現実の経済界とは今では異なる考え方の様に感じられるかもしれませんが、果たして如何なものか引き続き検討します。

  • 戦後の日本は、戦争に負けてから、外国の「物の世界」一色に塗りつぶされていると言える。本来の日本は決してこんなものではない。「物の世界」が入ってきたのは明治以後だが、戦後なんでもかんでも外国の真似という風に外国色に塗りつぶされている。明治以前は「人の世界」と「物の世界」との違いがはっきりあつた。9
  • 明治以前にも「物の世界」はあった。それは商人の世界である。商人は嘘をつこうが、駆け引きをしようが、国家のために不利になろうが、金さえ儲ければそれでいいと言う者もおり、そこには人格なんてものはてんでありはしない。したがつて、商人は「物の世界」の人間といっていいだろう。10
  • 商人をのぞいた武士階級は純粋に「人の世界」であった。僕らの知っている明治時代でも、政治家とか教育者とか官吏とかいう人たちには清貧に甘んずると言う言葉があったように清貧を誇りとする、そう言う話を耳にしたことがある。10

■問12、年功序列、終身雇用について、日本的な経営の特色と是非が問われていますが。

年功序列の標本は今の役所に形がそうではないか。本人の働きはどうでもいい、年功、学歴でそのままいく。適材適所、これが人間の社会でやることであって、年功序列は「物の世界」のものであるということになるね。定年制も「物の世界」のもので「人の世界」から見るとおかしいんだ。61

  • 人間は自分が生きるために生まれてきている。二人以上で生活しているからには、仲良く助けあっていく互譲互助の精神でいかねばならない。われわれの先祖が教えられて、三千年の間ずっとやってきたから、日本人は「和の精神」を大事にするようになった。お互いが仲良くしていくということは家族的にやるということだ。61
  • 日本の家族制度からみれば、定年制などあるはずがなく、文字通り終身雇用ということが当然なんだよ。終身といっても死ぬ寸前までというのではなく、後進の若い人や会社全体の事を考えて、一定限度で自発的に身を引くということも出てくる。出光では「心の中に定年制がある」とよくいうだろう。ただ、会社を引いても老後が心配ないようにしてある。このような「人の国」の行き方は「物の国」の人には理解できないだろうな。62
  • 外国ではいままでの会社をやめて他の競争会社に入るということが平気で行われているが、これは日本ではできんよ。義理人情を重んずる社会ではこういうことはできんよ。労働を切り売りする「物の世界」の人たちにはこれが当然らしい。個人主義、物質中心で、労働を切り売りし、人間を金で見積もる社会でなければ考えられない。62
  • 日本のように物質も必要であるが「衣食足って礼節を知る」という「足る」事を知って、何も贅沢せんでもいいんだ、という考えでお互いが仲良く幸せに豊かに暮らすことを目指していれば、当然終身雇用になるのではないか。家族制度を唱えている出光が終身雇用二なるのは当たり前だ。63

■私たち理念企業は企業の目的・志を明確にし、諸方互恵を経営姿勢とし、お客様はもとより、取引先、社員、同業者との互恵関係を築きます。企業は理念が不在だと擬似理念が蔓延します。

企業理念不在だと擬似理念=利益最優先になりやすい。企業の目指す方向が不明確で、社員は給料が目的の集まり→ 楽して、高給を得ようとし→ 意欲、士気は低く、社員は定着しない。そして社会的価値が不明で→ 外部の協力を失い→ 世間が冷たく扱う。

写真 人の世界と物の世界

■実践会参加者感想抜粋

柳井誠一氏

出光佐三氏の「人の世界」と「物の世界」を学びましたが、こちらも日々の業務や生活の中では自らの考えや、世間一般の考え(この本のなかでいう『物の世界』)に流されてしまいがちで、この実践会の場で改めて学ぶことにより『人の世界』への考えに戻り、実践できることを感じました。『人間尊重』の思いが、一緒に働く仲間に権限を与え、共に成長し、お客様も従業員も喜ぶ、そんな繋がりができると感じました。

ひと月に一度ではありますが繁忙期に会社を一日空けて出てくることは、スタッフへの仕事の引継ぎや、数日分の仕事の準備などで大変なことが多いです。そんな日々の雑踏に流されてしまい、ともすれば『黄金の奴隷』になりかねない状況になってしまうかもしれない自分を律してくれるのが理念であり、この勉強会であると改めて感じました。

小路口欣弘氏

『人の世界、物の世界』の輪読では今回学んだ部分全体を通して、現在の世界では日本も含めて物の世界であることを再認識し、何のための経営かという考えに立ち返り、深める時間となりました。

私も少ないながらも部下を持つ身として、どうしたら立派に育て上げることが出来るかということを考え悩みながら日々を過ごしていますが、今日の輪読や和談を聞き、部下を信頼することや、一人一人の優れている部分を見抜く力を磨くなど、私自身が成長しなければいけないところがたくさんあると思いました。

堀越弘道氏

出光佐三氏いわく「日本人の事業経営」社会は人が作ったものなのだから、人が中心でなければならない。「黄金の奴隷になるな」、人が物の上にあるべきだ。出光の会社の精神が「人の国」の人間として、理論と数の「物の世界」の中でやり抜いてきました。

「物の世界が原価意識」、「人の世界が心価意識」と、和道経営の解説でより具体的に理解することが出来ました。脱競争の得意貢献は以前も学びましたが、今回の出光佐三氏の本と合わせて読むことで前回より深く納得できました。

まずは和道経営。自分の廻りで互恵関係づくりを心掛けます。近江商人の三方よしの様に、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の様なお役立ちの心で互恵関係を広めて行きます。また、日頃私を支えてくれている家族にも感謝し、お互いに役立ちあいながら笑顔で仕事をして行きます。

藤井高大氏

「人の国」と「物の国」の違いは頭では理解しているが、「白」か「黒」かで分けられるほど簡単なものではない。人種的に考えれば我々日本人は、和の国で生まれ育ち長年にわたり受け継がれてきた思想があるので「人の国」のあり方が根底にあるのだと思う。しかし歴史を振り返ってみても、全く「物の国」の遺伝子がなかったわけでもないのではない。戦後の高度成長に繋がったことも要因の一つに考えられると思う。資本主義、社会主義、共産主義の中でも多方面から見て必要なものを受け入れる判断が必要なのだと考えます。

これから先の時代を創っていく中で大切なことは「人の国」つまり「和道」思考からの「自立」に向かう考え方なのだと思います。対外的に見ても簡単なことではなく、金正恩や習近平、プーチンなどの独裁国家などにとっては特に難しい問題です。だからこそ我々人の国の日本人が模範となり先頭に立って、相手の立場を考え、個人主義で自分さえよければ良いのではなく、互いに譲り合い、助け合い、分かち合う、互恵関係の構築こそが和の世界なのだと再認識し外国に示していくことが必要になっていくのだと思います。サッカー観戦後のギャラリーで日本人がゴミを拾う姿や、選手がロッカールームを去る際には来た時よりもきれいに後始末がなされている、こういう姿をこれからも示し続けていくことは我々日本字にとっても誇りであり自分達にもできることをやっていこうと思います。

 

理念実践会参加者

 

その二・安倍晋三の歴史戦・西岡力・阿比留瑠比氏

  • 理念実践会のテキストとして「安倍総理の歴史戦」を取り上げた。論者は西岡力・阿比留瑠比氏です。

GHQの言論統制が浸透した現実

  • 「戦後70年を検証する」を私自身が戦後を様々な角度から検証しましたが、GHQの教育への規制・進歩的文化人、学生運動と安保、教育三法と日教組、労働運動史、共産党と社会党の変遷、戦後の政治政党を通じて今尚、GHPの規制、呪縛脱皮できない日本のメディアの影響は残っています。私の大学時代は安保後にあたり学生運動はやや下火になっていましたが、大学は「マルクス経済学」が主流でした。

李登輝総統と重なる安倍総理

  • 今回理念実践会で、殉職された安倍総理が多くの政治的課題解決に取り組んできた実績を集中的に取り上げて見ると、私のなかで台湾民主化に取り組んできた李登輝元総統のことと重なってきます。中国の内戦で破れ台湾に移住した蒋介石国民党(外省人)1947年の戒厳令からの支配が始まった台湾にあって、農業問題の専門家として蒋経国に1971年採用されその後1988年の蒋経国死後総統に就任し2000年引退するまでの民主化への粘り強いしたたかな政治活動が重なってきます。

戦後レジームからの脱却

  • 今回、安倍総理がかかげた「戦後レジームからの脱却」の10年を事実に基づき検証する過程であらためて安倍総理の戦略の揺るぎない姿を見ることができます。そして安倍総理の外交、政治のよって戦後GHQに洗脳されてきた日本の歴史を粘り強く世界に向けて、また日本国民に向けて訂正してきた事実・政治的業績が蘇って来ます。国民が洗脳されてきた自虐史観から脱皮させるためには膨大なエネルギーと揺るぎない意志・決意・戦略が必要なことが。今月、来月と二回に分けて検討したいと思います。是非お読みください。

 

第四章 外務省の敗北主義

★戦後の「事なかれ外交」に終始してきた外務省の軟弱な実態・姿勢があぶり出されます。安倍総理が亡くなられたこといいことにして、外交官も政治家もメディアもぬけぬけと嘘をつく。私たちは一般的にはテレビや新聞が情報源になって、易々と騙され洗脳される。その根本には戦後のGHQの施策、言論統制から未だ脱皮できない日本のメディア、新聞、テレビ、戦後利得者達が残念ながら残存していることが要因だ。

★しかしながら、この本で語られている事実や朝日新聞の慰安婦問題の虚偽が暴かれ、次の世代の国民は自ら情報を取り込み判断している。世界も日本に対しての認識を改めてきている。余談だがかつて販売部数トップを占めていた朝日新聞が400万部を切った事実が国民の日本の戦後史の認識が変化していることを物語っている。

 

■「敗北主義」だった日本

  • 西岡 歴史認識問題で外務省は、第二次安倍政権下で官邸の中に歴史戦に対抗する部署ができるまでは「基本的に歴史戦は負け戦だから戦わないほうがいい」という姿勢でした。153
  • 西岡 今となってはもう常識になった慰安婦の「強制連行」という噂について、二〇〇七年三月、総理が国会で「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性はなかった」と答弁したら大騒ぎになったことがありました。するとマスコミに取り上げられ、「謝れ、謝れ」と大合唱になった。ちょうどアメリカの下院で慰安婦をめぐる対日非難決議案が出されていたときで、アメリカの中でも安倍批判が急速に高まりました。154
  • 阿比留 櫻井よしこさんら民間の「歴史事実委員会」が二〇〇七年六月一四日、ワシントン・ポスト紙に「THE FACTS事実」という意見広告を掲載したわけです。①慰安婦の募集をめぐる「狭義の強制性」の否定②不当な募集を行った業者の処罰③インドネシアでオランダ人女性を強制的に慰安婦とした事件の処罰④元慰安婦らの証言に対する疑問⑤慰安婦の待遇、を事実として挙げたのです。155
  • 西岡 外務省にいた人たちは「負け戦だからやめておけ」と言っていた。岡崎泰之北米課長さんは産経新聞の正論欄コラムにもそういう趣旨のことを書いていましたよ。元外交官の岡本行夫さんもそうでした。155
  • 阿比留 少し前までの外務省には「とにかくやりすごして、沈静化するのを待つしかない」という人が多かったのです。でも、やりすごすだけでは問題は沈静化しません。栗山元次官が「歴史は戦勝国が書くのだから仕方がない」と言ったように、歴史問題に関しては外務省に敗北主義が横行していたのです。156
  • 西岡 安倍さんは総理のとき、特命全権大使が新しい任地に赴任する際には、三つのことをやれと指示をしていたそうです。一つは邦人保護に全力で取り組むこと、二つ目が日本製品を売るセールスマンになれということ、三つ目が歴史問題で日本が誹謗中傷されたら、大使が出ていって反論しろということです。156
  • 阿比留 第二次安倍政権になってから、大使に対するディベートレッスンが始まりました。相手の母国語がしゃべれても、ディベートの訓練をしていないために議論に負けてしまう人がいるわけです。例えば中国の大使と歴史問題に関してテレビで対決させられたときに、一方的にやられてしまう。だから、ディベートに勝てる訓練をやれという話になったのです。156

■戦わない外務省

8.西岡 宮家邦彦さんは「韓国がゴールポストを動かした」という言葉を作ったのは自分だと言っていますが、実際に、先にゴールポストを動かして韓国側に近づいたのは日本の外務省なのです。日本が先に慰安婦問題で謝罪したから、韓国は「これは使える」と思ったのであって、先に自分たちがゴールポストを動かしたのに、外務省はそれは言わない。159

11、西岡 中国や韓国が歴史問題を取り上げる理由は、必要だからなのです。韓国は一九六五年から一九八二年までの間、歴史問題を取り上げたことはありませんでした。朴正煕政権時代には提起されていません。全斗煥政権時代に初めて問題が提起されたのは、経済協力が欲しかったからなのです。このとき、中国の鄧小平も日本から資金を引き出す路線に切り替えて、改革開放はやるけれども、共産党の正当性を守るために悪い日本が謝って金を持ってきたんだとしたかった。159

12.西岡 今は韓国批判をしている武藤正敏元駐韓大使も著書『日韓対立の真相』に、こう書いています。「そもそも、軍による「強制性」が絶対になかったと言い切れるかどうか。資料がないというのは理由になるのか。軍人による強制連行を資料として残すとも考えられません。また、「絶対になかった」と明確に否定できる証拠にしても見つかることはないと思います」こういうことを言う人が、慰安婦像が建てられときの大使だったのです。河野談話が出る直前までの北東アジア課長でした。160

■「クマラスワミ報告書」

13.阿比留 外務省でもよくやった人はいます。駐英大使だった鶴岡公二さんは、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と一九九六年に認定した国連人権委員会の「クマラスワミ報告書」について、「あまりにおかしい、これは間違っている」と、わざわざアポイントを取って、スリランカのクマラスワミ女史に会いに行ったのです。162

14.阿比留 日本政府は「クマラスワミ報告書」に対する反論書を作っています。これは「偏見に基づく一般化は歴史の歪曲に等しい」と書くなどかなりよくできたものだったのですが、政府は発表せずに取り下げてしまったのです。理由について、当時の岸田文雄外務大臣は、「文章に関し、詳細すぎるといくつかの国から指摘を受けて、簡潔な文書を改めて出した。(初めの)文章は、現状では取り扱いは非公開となっている」と二〇一四年一〇月の衆院予算委員会で答弁しました。163

15.西岡 反論書は橋本龍太郎政権のときに作成された、全四二ページのかなり厚いものです。政府は一度、配布したのですが、再び回収して、「日本は河野談話で謝っています。アジア女性基金で償いました」というような、短い文章に差し替えてしまいました。歴史の事実関係は一切争わず、「もうすでに謝罪している」で片付けようという「事なかれ外交」に落ち着いたわけです。163

■歴史認識問題は匍匐前進で行くしかない」

16.阿比留 安倍さんは「じわじわと攻めていくのだ」と言っていました。正しいことを、いきなり「正しい」とぶつけても、かえって誤解を生みかねないからです。だから安倍さんは「歴史認識問題は匍匐前進で行くしかない」と言って、漸進主義をとりました。いきなり攻めるよりも、一歩一歩、ゆっくり進んだほうが認知されていくと考えていました。164

 

第2章 平気で嘘をつくNHK

■元外交官田中均氏とNHKの嘘

1.西岡 NHKの『クローズアップ現代』が、2022年9月、「元外交官が語る北朝鮮との秘密交渉 その舞台裏」という番組を放送しました。小泉純一郎総理が訪朝して金正日総書記と行った日朝首脳会談から20年だからということです。そこに当時の日本の交渉担当だった田中均元外務審議官が登場して交渉の舞台裏を明かしましたが、この番組への感想をひと言で言うと、田中さんは恥を知れということです。安倍さんが亡くなったため、平気でこんな嘘をついているなと強く思いました。60

2.西岡 この中で、田中さんは「拉致問題を核と国交正常化とパッケージでやっていた」というようなことを言っていますが、彼にとって拉致問題はそのような位置づけではありませんでした。国交正常化が第一の目的であって、拉致問題の解決は世論を一定程度、なだめるためのものでしかなかったのです。61

■彼は何をしたか

3.西岡 二〇〇二年9月17日の小泉訪朝で、その日の朝、代表団が平壌に到着して首脳会談が始まる前に、北朝鮮外務省が田中さんところに紙を持ってきました。紙には「横田めぐみ以下8人は死亡」と記され、5人の生存者の名前が書いてありました。その日の朝に、すでに田中さんは情報を知っていたにもかかわらず、拉致被害者家族会に伝えたのは、夕方になってからでした。61

■外務省のひどすぎる対応

4.西岡 次の日の朝、私(西岡)たちの泊まっていたビジネスホテルに安倍さん(当時・官房副長官)が訪ねてきました。日本政府から示されていたのは、小泉総理からの公式の説明は10日後に行うということでした。安倍さんは副長官として公的な説明に来たのではなく、政治家・安倍晋三として自ら出向いてきてくれたのです。65

5.西岡 北朝鮮から渡された紙に「8人死亡」と書かれていたため、日本の世論が悪化して平壌宣言に悪影響を与えることを懸念して、情報を管理したとしか思えないやり方をした人物、それが田中さんです。このような非人道的なやり方をした田中さんが、テレビに出てきて、「拉致問題を解決しようと思い、核、ミサイルとパッケージで交渉した」などと言うのは、まさしく偽善です。68

■「サスピシャス・ガイ」疑わしい人間・田中元外交官

7.阿比留 安倍さんはかつて産経新聞のインタビューに、こう答えています。「政府の中の何人かの主要な高官が、『大義は日朝国交正常化であり、拉致問題はその障害にしかすぎない』と言っていた」。これは、小泉総理や福田官房長官、田中さんたちのことです。69

8.阿比留 安倍さんを除けば、当時の官邸幹部はみんな明らかに、拉致問題を本気で重視なんてしていなかったのです。「日朝平壌宣言」には「拉致」という言葉が入っていないので、それは明らかです。70

9.阿比留 訪朝に同行した副長官であるにもかかわらず、安倍さんが初めて平壌宣言を見せられたのは平壌に向かう飛行機の中でした。拉致問題に一番詳しい安倍さんはラインから外されていた。安倍さんは飛行機の中で「拉致」が入っていないことを初めて知り異を唱えましたがすでにどうしようもなかったそうです。71

10.西岡 平壌宣言調印の翌日(9月18日)朝に安倍さんが私たちを訪ねて来たとき、「わかりません」と答えたのも、安倍さんだけ情報が無かったからです71

11.西岡 その翌日(9月19日)に朝日新聞が朝刊で、北朝鮮が渡してきた紙には「死亡日」が書いてあると報じました。その「死亡日」を田中局長は平壌での会見で隠した。家族にも伝えていなかった。実は北朝鮮側から渡された拉致被害者の安否リストは二枚あって、二枚目に「死亡日」が記されていた。帰りの飛行機の中で、外務省の訳した紙は2枚配られたのに、安倍さんの封筒だけは二枚目が入っていなかったと聞きました。71

■拉致の「ら」の字も

12.阿比留 私が安倍さんに電話で、「小泉総理は、会談は成功だと満足げでしたが、日本の空気は違いますよ。小泉総理には厳しい視線が向けられています」というと、安倍さんは「わかっている。そのことを踏まえて上で私は対応する」と答えました。安倍さんしか拉致問題の深刻さを分かっていなかったのです。73

13.阿比留 訪朝することが発表された8月の終わりに安倍さんに会うと、安倍さんは絞り出すような声で「小泉さんは拉致の『ら』の字もわかっていない」と言った。小泉さんたちには拉致問題が被害者の人権侵害であると同時に、安全保障にも直結する国家主権の侵害であるという理解が、まるでございませんでした。75

■被害者を北に返そうとした田中均氏

14.西岡 10月24日誤認が帰国して10日目安倍さんの部屋で中山恭子さん、田中均さん、斎木昭隆さん(当時・アジア大洋州局参事官)が集まって会議が開かれた。地村さん夫婦は日本に残りたい、曽我さんもあるルートを通じ残りたいと意思表示があった。会議中突然、蓮池さんから中山さんの携帯に残りたいと電話がありました。82

14.西岡 田中さんは「ミスターXとのパイプが切れる」と強く反対し、最後に安倍さんが「日本の家族が返さないと言っているのを、政府が無理やり返すことはできない。日本は民主主義国家だ」と言って田中さんの反対を押し切った。その時の様子を谷内正太郎(当時官房副長官補)が見ていて「田中氏は顔を真っ赤にしていた」学者や評論家たちはテレビで」適当な事ばかり言って、当時民主党幹事長だった岡田克也氏は2003年の1月のNHKの番組で「五人を返さないと政府が決めたことは間違いだ」と政府を批判していた。北朝鮮がどんなくにかも分かっていない。83

■福田康夫氏の嘘

15.阿比留 2022年9月17日の共同通信のインタビューに答えて「5人を北朝鮮に戻すなと私に訴えた官邸幹部は安倍氏を含めて誰もいなかった」と述べているがあれは嘘です。みんな保身と自己正当化のためにそうやって嘘をつくのです。安倍さんがいなくなったから嘘がつけるのです。85

16.阿比留 物事を勘違いしているのは政治家だけではありません。マスコミもだいそうでした。「家族会」「救う会」はかわいそうな人たちが何か運動をやっているのだという程度の位置づけだった。87

17.阿比留 小泉訪朝前の8月に、官房長官記者会見で福田さんに「そもそも日本にとって北朝鮮と国交正常化するメリットは何なのですか」という問いに、福田官房長官は説明を一切しないばかりか、「いい質問だね。はい次」と事実上無視しました。87

18.阿比留 安倍さんは総理を辞めた後、「日朝国交正常化する目的は、拉致被害者を取り戻すことだ。それができないなら国交正常化する必要なんて、まったくないじゃないか」と言っていました。88

■田中氏を持ち上げるメディア

19.阿比留 田中さんがどんなやり方をしてきたのか、そのような話がもう表に出ているのに、田中さんはいまだに毎日新聞やNHKなどを利用して、自分の「正しさ」を主張しようとするのです。そもそも田中さんを持ち上げるメディアは、拉致問題よりも、北朝鮮との国交正常化のほうが大事と思っているかもしれません。96

■安倍さんが日米同盟を維持

20.西岡 2003年5月の小泉訪米の際に、田中さんは先乗りでアメリカに行って、北朝鮮に圧力をかけることはやめるように訴えましたが、それを国務省はすごく不快に思っていたのです。安倍さんは副長官として小泉さんの訪米に同行したわけですが、夕食会で、田中さん(サスピシャス・ガイと米国外務省と言われて)は中に入れてもらえなかった。101

21.西岡 翌朝ブッシュ大統領は「シンゾー、来い」と安倍さんを呼んで、機密情報のブリーフィングを聞かせました。「シンゾーは信用できる。日米同盟派であり、テロリストの金正日と戦う姿勢を見せている」というわけです。安倍さんがいたから、日米同盟が維持されたのです。102


脳力開発190号/理念の時代を生きる190号

脳力開発190号

日本三霊山(富士山・白山・立山雄山)登頂記

古希を迎えたとき、企業研修を年に何回か開催している会社の三十代の社員から年の初めに「先生、古希の記念に富士山に登りましょう」という提案があった。それまで富士山に登ろう等と考えたことがなかった。たまたま、私が日本コロムビアに務めていたころの尊敬していた私より十歳年上の上司が、古希の年に家族と富士山に登ったと言う話を会社の同窓会で耳にしたことがあった。若い社員の言うことを受けてやってみようと決めた。

山登りは振り返ってみると東京に転勤した三十代前半に始めた。同僚が大学の登山部だったこともあってともに登り始めた。きっかけはストレス解消のためであった。秋葉原の担当で、DENONブランドで従来のコロムビアの商品とは一線を画した高級オーディオ分野に参入しでオーディオ各社がしのぎを削る中で猛烈に仕事をしていた時期に重なる。日本コロムビアのなかでは一番高い予算を持ち、業界のなかでも勢いにのって販売を延ばしていた時期でもあった。全国トップの業績を上げ続け、仕事が面白くてたまらない時期だった。しかし、永遠に業績が伸びつづる訳でもない。そう言うやや不調の時期に休日に自宅にいて悶々とすることは避けたいと、近くの山に単独登山に出かけた。その後家族とそして嫌がる子供を巻き込んでの登山に変化して行った。その息子は五十歳なって山登りに凝っている。冬山も登っている。

二〇一三年富士登山企画

富士登山を決めてから、私は三浦雄一郎の話を参考に毎日ノルディク・ウォーキングを始めアンクルウエイトを片足三キロまで徐々に増やしながらトレーニングを開始した。善子はアップステップを購入して毎日自宅でスクワットと平行して訓練した。彼女は若いころバレエを六歳から二十頃まで通づけていたので体力は十分だが、それで七十歳間近には不安がある。

若い人たちそして丁度誕生日を迎えて七十一歳になったばかりの私、六十八歳の妻、六十五歳の友人、五十歳の若手社長以下若い人たちと七名で富士山に登った。ご来光にも恵まれたが以来、善子は「富士山は見るものでもぼるものではない」と言い続ける。頑として高い山には登らなくなった。孫たちとの合宿で筑波山や宝篋山(ほうきょうさん)に登る程度だ。

三霊山に挑む

富士山登山をきっかけに福井から参加した宇野氏と古澤氏と毎年私の鯖江出張の後、山に登ることにした。七十一歳で富士山、七十二歳で白山に登った。ふたつの山が日本三大霊山だということで七十三歳は立山に登ることにした。この時は善子も参加して富山で合流し雷鳥沢にとまり、翌日登ることになった。リーダーの古澤氏の凡ミスでコースを間違え剣岳コースに迷い込み私たちは体力も消耗し、一ノ越でギブアップした。勿論古澤氏、宇野氏はそのまま登頂を果たした。三霊山に登頂に失敗した私は、同じ年の秋の初めに妻と再チャレンジを企画した。九月の末、やや小降りの雨の中、室堂を出発し一ノ越に泊まり翌日立山・雄山に登る計画を立てた。ところがその夜からの暴風雨で翌朝も雨風で登山は中止せざるを得なくなった。

山への憧憬

学生時代男性合唱の正指揮者だったときメインステージの曲に合唱組曲「山に祈る」を選択した。卒業を目前にした上智大学山岳部遭難した大学生の残された手記を朗読するところから始まる。1966年秋の定期演奏会だった。その年の夏私は北海道大学の桑園寮で高校時代の同級生・神谷春夫君の兄上・正男さんと一月暮らしていた。春夫君は彼がキャプテンをしていた北大山岳部の大雪山遭難事故の後始末に大雪山で大捜索に出かけていた。個人的には山岳部の遭難事故を私のメインステージの曲と重なっていた。

ヒマラヤへの憧れ

2012年年2回の定期的な海外旅行にネパールを選んだ。エベレストに対する憧憬で何とか遠望したいと企画した。ナガルコットからのトレッキングを楽しみ、ポカラからマチャプチャレ、アンナプルナを眺め、飛行機に乗ってエヴェレストを見ることができた。翌年12月にはその時ご縁のあったネパール在住の高久多美子さんの案内でマナスルの旅をした。善子は馬に乗って登った。

スイス・ニュージランドの旅

2013年5月には5年ぶりにスイスを再訪し、ツェルマット、グリンデンワルト、シュトックホルンからマッターホルンを眺めトレッキングを楽しんだ。その後ニュージランドを訪ねマウントクックも楽しんだ。善子のモラMOLAの作品には山の作品が多い。

 

富士山登山の後の国内の山

七十一歳富士山、七十二歳白山2702米、七十三歳立山登山敗退、七十四歳乗鞍岳3026米、七十五歳中止、七十六歳西穂独標2701米、七十七歳上高地、古澤氏は結婚により登山中止。七十八歳福井夜叉が池、宇野氏と二人、帰路熊に遭遇、七十八歳木曽駒ヶ岳米2956米、昨年七十九歳立山・雄山登山を企画すれども体調不良で中止した。

体力の自信が揺らぐ

 昨年年初に立山・雄山登山を企画した。トレーニングも繰り返していたが7月、登山決行の前、最後の調整に善子と宝篋山に登っている途中でシンドさを感じ、そのまま登る気にならない。初めての体験だ。熱中症だったかもしれない。その年の登山は躊躇したがやめることにした。そして月末の立山登山を中止を宇野氏に伝えた。

80歳最後のチャレンジ

今年私は八十歳を迎える。年初に立山登山の計画を立てた。コロナもやや下火の様相を呈している。3000米の登山は今後続ける自信はないが。お正月に帰宅した次男竜に一度山に連れていってくれと話して7月の立山のあと、上高地から涸沢への計画を話し合った。体重を5キロ減量、月に2回はトレーニングするようにアドバイスされた。厳しい指示だった。頭では納得できる。ウォーキングは毎日続けてきたが。

立山一本に絞る

 5月から実際の登りのトレーニングを開始した。宝篋山に登るのは撤退した昨年の7月以来だ。自信はない。いつものペースより遅めにしたゆっくり登った。いつもは善子に先行してもらうのだが、今回は私のペースに合わせてもらった。YAMPAでデーターを比較すると20分ぐらい例年よりオーバーしたが無事登れた。かすかな自信が芽生えた。下りは脚が少し笑ったが何とかいけそうだ。2週間後、再チャレンジしたら、ほぼ時間も元に戻り脚が笑うこともなかった。最後のトレーニングは7月22日だった。これも無事クリアーした。しかし善子はかつての私の下りの早さに比較して「大丈夫か」と何度も何度も忠告する。

いよいよ立山・雄山に挑む

 7月27日夕方富山に移動宿泊、28日立山駅からケーブルカーとバスで室堂到着2450米。1時間ほどの休息の後一ノ越山荘2700米までの登り。今から7年前に泊まった山荘だ。1時間の工程だが厳しい。息が切れる。2時間4分かかった。265米の登り。到着後まずは初日の無事を乾杯。5時からの夕食まで休憩。夕食までの眠りは浅い。食後写真を撮ったりしながら休息。その後9時就寝まで明日の準備。

翌朝トイレに起きたら4時だった。宇野さん曰く「熟睡していましたね」確かに一度も目を覚まさなかった。

写真夕焼け

雄山へ最後の登山

5時24分出発。YAMAPデーターによると2時間16分で登頂した。その間休憩時間は52分、登りの時間は1時間34分。三の越からは100歩登って5分休む、この繰り返しだ。最悪三時間かかってもよいと思っていた。100歩で高度20米稼ぎ処によって30米の高度を稼ぐ。2986米地点から頂上の建物が見えた。そこから3003米まで登るのに30分かかった。25米の高度を稼ぐのに。登頂7時40分。神社にお参りし朝食をとった。やっと三度めで念願の三大霊山の登頂がかなった。頂上から善子に電話した。無事登頂と。

一ノ越しへの下り

下り一ノ越までが大変だ。一歩一歩ゆっくり下りた。下りが正に体力の限界を示すことになる。8時27分にスタートして一ノ越まで休憩を含めて2時間かけて下りた。下りは脚を踏み外すと滑落の危険がある。若いときは考えもしなかった。登ってくる人たちを見ながらもう登ることはないと想いながら一ノ越についたとき改めて自分の利が80歳であることを自覚した。(悦司)

 

 

理念の時代を生きる190号

その一、理念実践会・「人の世界」と「物の世界」出光佐三

六月からの理念実践会の今年のテキストに出光佐三の「人の世界」と「物の世界」を」使っている。彼の発言をそのまま受け取るのではない。経営者として本質を捉えることだ。

  • 戦後の日本は、戦争に負けてから、外国の「物の世界」一色に塗りつぶされていると言える。本来の日本は決してこんなものではない。「物の世界」が入ってきたのは明治以後だが、戦後なんでもかんでも外国の真似という風に外国色に塗りつぶされている。明治以前は「人の世界」と「物の世界」との違いがはっきりあつた。
  • 明治以前にも「物の世界」はあった。それは商人の世界である。商人は嘘をつこうが、駆け引きをしようが、国家のために不利になろうが、金さえ儲ければそれでいいと言う者もおり、そこには人格なんてものはてんでありはしない。したがつて、商人は「物の世界」の人間といっていいだろう。
  • 商人をのぞいた武士階級は純粋に「人の世界」であった。僕らの知っている明治時代でも、政治家とか教育者とか官吏とかいう人たちには清貧に甘んずると言う言葉があったように清貧を誇りとする、そう言う話を耳にしたことがある。

「物の国」は「利益最優先」の経営

出光佐三は神戸高商を卒業後、酒井商店に勤務した後創業し後に出光興産を育て上げた。日本人も「海賊と呼ばれた男」で大まかな話としてご存じの方は多いと思いますが、「物の国」は平易な言葉で言えば「利益最優先」の経営を営む企業です。

最近のビッグモーターの経営は文字どおり「利益優先」で社員にもお客様にも嘘をついてでも自社の利益を最優先させます。一方、保険会社もこれからの調査もありますが、加担していることは間違いありません。

■私たち理念企業は企業の目的・志を明確にし、諸方互恵を経営姿勢とし、お客様はもとより、取引先、社員、同業者との互恵関係を築きます。企業は理念が不在だと擬似理念が蔓延します。

■擬似理念=利益最優先

ビッグモーターのみならず、補助金の虚偽申請の近畿ツーリスト等を思い浮かべながら以下読んでください。

企業理念不在だと企業の目指す方向が不明確で、社員は給料が目的の集まり→ 楽して、高給を得ようとし→ 意欲、士気は低く、社員は定着しない。そして社会的価値が不明で→ 外部の協力を失い→ 世間が冷たく扱う。

  • 理念実践会は企業理念を制定した企業の経営者が毎月集い、自社の理念に添った実践例を語り和道経営に添って話し合い、学び合います。そして現実の中から問題点を解決し快労報告(苦労ではない)を年に一回やっています。
  • 出光佐三は「黄金の奴隷となるな」「労働の切り売りをするな」「定年はない」「組織は無を持って理想とする」など含蓄に溢れた言葉で会社を作り上げてきた。
  • 今、経済界で話題になっている「働き方改革」「男女雇用機会均等法」「非正規雇用」等いろいろ制度が変化しているのは事実だが、経営者はこれらの問題も自らの頭で考え、取り組まなくてはなるまい。

その二・企業倒産の道筋

 企業は図のように「企業活動がトータルとして世の中の役に立たなくなってきた、売れなくなる→ 利益が出なくなる→ 支払いができなくなる→ 潰れる」。理念が不在だとこうなる。私は日本コロムビアに務めていた。100年企業である。私は今から30年まえに」会社をやめ私の理念に添って創業した。40代から現状の事業経営では倒産すると判断してやめた。当時の電機業界、特にオーディオ業界はほとんど消滅に近い形で姿を消した。

私の関係したL社は中心の事業部が盛んなころ企業理念を制定し、同時にメディカル部門を立ち上げた。予定では10年で利益を出せる計画だった。その間の努力、工夫は並大抵ではなかった。20年後今では新規事業メディカルが軌道に乗り成長を続けている。

先日、N社の経営の未来を定期的に検討する会を10年以上続けている。この図の様に幸い企業理念を制定して19年を迎えた。以来理念に添った経営を続けてきた。理念を中核にして自立連帯運営を推進した。結果全グループも黒字展開し、経営能力もつけてきた。いよいよ第二の大改革に取り組む段階になった。3年後には見事に従来の事業から180度転換した優良企業に転換するであろう。これからが個人個人の脱皮も求められる。

 

その三・安倍総理の志を継承する会

7月8日を迎えた。安倍総理が奈良の地で命を落として一年が経った。主催した桜井よし子氏は「安倍総理は日本人の価値観を呼び覚まし、吉田松陰先生を尊崇し眼の前の事実に向かい合い、目の前の人を見よ」と語ったと。

6月に台湾を訪れて、高雄紅毛港保安堂を訪ねた。廟は、安倍氏が死去した翌日の7月9日に追悼会場を設置。その後、有志から寄付を募り、銅像を作り始めた。銅像の高さは175センチ。台座に「台湾永遠的朋友」(台湾の永遠の友人)と書かれている。廟の責任者、張吉雄氏は産経新聞の取材に「台湾の国際組織加盟への支持など、いろいろと尽力してくれた安倍さんのことを私たちは忘れない。この銅像を日台友好のシンボルとして後世に残したい」と記事にしていた。

■留魂碑

やっと一年経って、安倍総理の留魂碑が建てられたというニュースを目にした。テロに遭遇した場所から5キロ離れているという。

「安倍元総理の魂、この世にとどまっている」 高市氏、留魂碑建立で

高市早苗・経済安保担当相は 7月1日に、事件のあった奈良市で留魂碑の建立をいたしまして、除幕をいたしました。安倍(元)総理が敬愛しておられた吉田松陰先生の辞世の句なんですが「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置きまし(置かまし) 大和魂」というのがございました。まさに私たちは留魂碑を設置したんですが、「留め置きまし 大和魂」、つまり、日本人として日本を思う心、安倍元総理のその魂というのは、まだこの世にとどまっているんだろうなと思います、と語った。

■安倍昭恵さん、台湾で安倍元首相の銅像と初対面

台湾訪問中の安倍晋三元首相の妻、昭恵さんは18日、台湾南部の高雄市を訪れ、市民有志が昨年9月に建てた等身大の安倍元首相の銅像と初対面した。炎天下にもかかわらず、昭恵さんを歓迎するために会場周辺には200人以上の市民が集まった。銅像に献花した昭恵さんは「台湾訪問を計画していた主人だが、残念ながら来ることができなくなった。その魂はきっとどこかで私たちを見守り、日台友好を応援してくれていると思う」と語った。 昭恵さんはその後、台南市に移動し、同市内の美術館で開催されている「安倍晋三写真展」を訪れた。写真展は産経新聞のカメラマン19人が撮影した安倍元首相のベストショットなど100点以上のほか、「日台友好」をテーマとした台湾と日本の芸術家による作品も約50点が展示されている。 展示を見た昭恵さんは「主人の写真展が台湾で開催できたことは大変誇らしく思う。私も主人の遺志を引き継いで日本と台湾のために力を尽くしたい」と語った。 昭恵さんは19日、台北郊外にある李登輝元総統の墓参りをするほか、蔡英文総統や頼清徳副総統と面会する。20日に帰国する。(台南 矢板明夫