経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発132号/理念探究会132号

脳力開発132号

沖縄問題番外編・翁長知事逝去にともなう雑感(8月31日)

 翁長知事が亡くなった。沖縄県南部の糸満市内にある摩文仁丘には黎明の塔や健児の塔など各県の慰霊碑や慰霊塔が建立され、平和祈念公園となっている。6月23日慰霊祭が執り行われた。この時、その会場で翁長さん顔をみた私の友人は、闘病後のやつれた姿に愕然としたと一報してくれた。新聞の写真をみても険悪な顔で、安倍総理を見つめていた。顔の相が悪い。人間の思いは顔に出る。その後、逝去され今、後継者選出でオール野党は多忙の中にある。

■翁長さんの本心・権力への執着

翁長さんは何のために知事になったのだろうか。うがった見方を承知で言うと、前知事仲井真知事が、後継者として指名してくれないことが予測されたことから、対立候補として選挙に出る。本心は権力への執着。そこにオール野党(共産党、社民党などが野合)支持推薦し、結果として知事に選出された。論点は一つ、名護市辺野古地への移設反対だ。

任期中、ことごとく前知事の判断を否定し続けた。今年、肝心の名護市選挙で敗退し、引き続き石垣での市長選挙で敗北、そしてその敗北に並行してオール沖縄の財界支持グループの2社金秀グループ、かりゆしグループ辺野古移設の賛否を問う県民投票をするようオール沖縄会議内で提案したが、受け入れられなかったことを脱会の理由に挙げ、オール沖縄会議から脱会すると表明した。共産党色が強くなりすぎた。

■与党とメディア二紙の締めつけ

翁長さんに対して県会議のなかでも与党、共産党、社民党の締めつけが強く、加えて沖縄タイムス、琉球新報の締めつけが大きい。オール沖縄にとって、知事が翁長さんであろうがなかろうが、自分達の言うことを聞いてくれる知事ならば、誰でもよい。極最近の本人の知事後継者候補の指名(遺言)に対して二人とも否定しているという。一方、自民・公明・維新は知事候補の絞り込みにも成功している。

■オール沖縄の崩壊

少し大胆にいえばオール沖縄はその政治的使命を終え、既に時代遅れになっている。社会党が社民党に衣替えして、今でも僅かな国会議員が残っているが、その政党としての存在価値がない野党であるにも関わらず、沖縄ではまだ、存在価値はあるたようだ。自治労、沖教組、大学、高校の教員たち、メディア、社民、共産、自由党など、既に時代遅れの反政府、反日活動は今度の知事選挙で終焉を迎える時期だ。

■翁長さんの人生

翁長さんは自分の人生を生きたのだろうか?知事候補になるころ、当人の政治活動スタート時代の姿勢・辺野古移設の姿勢をひるがえし、全く反対の立場を表明し当選した。だから在任中はオール沖縄、沖縄メデヘア等支持団体から辺野古移設反対の姿勢をどんな場合にも強制され、身も心も消耗しつくして、亡くなられた。そういう印象の翁長知事の3年6ヶ月だった。

この構図は、戦後70年をまとめてみて、GHQに今なお洗脳されているメディアや進歩的文化人の姿と重なる。県政与党が社民6人、共産6人、社大3人、諸派3、無所属9人の計27人、野党は自民が14人、無所属1人の計15人、中立は公明4人、おおさか維新2人の計6人。(8月20日記す)

翁長知事の遺言テープ(?)で指名された自由党・玉城氏

その後のニュースによると苦渋の決断で、玉城氏は立候補をするということだ。勿論、野党共闘だ。立憲民主党も支援すると報じていた。辺野古地埋め立て撤回を旗印にしての弔い合戦だという意向が強い。本土復帰(1972年・昭和47年)以来、政府と対立して46年経った。簡明に言うと沖縄は共産党、社民(旧社会党)、日教組、左翼系労働組合、そしていまだ残っている琉球大学の左翼大学教授たちに支配されてきた。換言すれば彼等実は中国共産党のしたたかな影響を受け続けてきいる。

反米、反政府ということは、反資本主義だった中国、ソ連の共産主義の夢であった。これは反資本主義=反帝国主義を旗印にしてきた中国とソ連の言い分だ。その中国がソ連と対立したとき、中国はソ連に対して反社会主義だといって非難した。その後ソ連、共産主義の東欧諸国の崩壊を迎え、今では最盛期136人を擁した社会党は北朝鮮の拉致問題が明るみに出て、凋落を続け2018年4名である。

オール沖縄の中心は実は共産党である

共産党は護憲派を装っている。改憲派の代表を自民党とすれば護憲派の代表はミニ政党に落ちぶれた社民党である。旧五五体制の当時の二大政党であったが今や対立政党とみずから言うのもおこがましい。にもかかわらず世の中には護憲派と称して大きな顔をしている社民党の連中が多い。その中身は、大学教員・弁護士・組合活動家・ジャーナリスト等などインテリが多い。こういう連中を動かしているのは共産党である。共産党ならびにその同調者、親近者である。共産党が護憲派の中心政党に見えるが、そうではない。偽りの仮面をしている。(参考図書・マスコミ偽善者列伝・加地伸行著)

オール沖縄・護憲派の真意

共産党こそ現日本国憲法を否定し、改憲を目指している。改憲(現行憲法反対)を堂々と唱えた過去がある。その最大の理由は「天皇を否定、皇室を否定する」ことが、共産党の使命だからである。しかし、日本において天皇、皇室の廃止などおぼつかない。だからオール沖縄などと偽って、内実は中国、韓国、北朝鮮に媚をうり、沖縄から米軍を撤退させることが使命になっている。辺野古移設反対の真意はここにある。社民党やその同調者の真意はここにある。

  • 今までもこの古い過去の構図が続くであろうか?沖縄県民にも確かに問題はある。しかし、次第に学習してきた県民は、おそらく玉城氏を選ばないであろうと私はこの時点では予測している。(2018年8月30日)

 

理念探究会132号・「情けは人のためならず」

情をかけておけば、それがめぐりめぐってまた自分にもよい報いが来る。人に親切にしておけば必ずよい報いがある。★補注:情をかけることは、かえってその人のためにならないと解するのは誤り。「日本国語大辞典 第2版」

日本人の美意識

脳の使い方において日本人は本質的にすぐれているのであろう。つまり美意識の要素をつかさどる右脳をよく使う。それが左脳とうまく融合して、非常にフレキシブルに物事を見る才能を生み出しているのように思われてならない。この才能が日本人の美意識の根底にあるのではなかろうか。見えるものを細かく分析して見ようとするのがヨーロッパ人である。分析して物事を理解する。だから「分かる」のである。これに対して、全体的に物事を掌握していく日本人の理解の仕方は「つかむ」というべきかもしれない。物事を道理で見ていけば、本質を間違えることはまずない。理屈は、木をみて森を見ずということになりがちだ。その点日本人は森全体をみる能力に長けている。(小河二郎・無尽蔵井泉)

  • 今回、日本人の長所を見直してみたい。時代は論理(ロジック)よりも情(感性・調和感覚)が見直されている。日本文化が見直されている。戦後教育は論理・合理を優先させてきたが、今は論理と情の融合(左脳と右脳の調和)が注目されている。この感覚は西洋人にはつかみきれないところがあるだろうが、近頃海外からの旅行客が増えて、日本文化、日本人が見直されてきている。この点を考えてみたい。

 

情の力」で勝つ日本  日下公人著 ポインパレビュー    

第一章「情の力」の神髄 ―日本人と西洋人の考え方は何が違うのか

以心伝心と直観力とアナロジーの威力

  • ギリシャ人も、自分が考えたことを他人に伝える話し方には二通りあると考えていた。一つは「たとえ話(アナロジー=類推)」で、もう一つが「論理(アナリスト=分析)」である。「たとえ話(アナロジー=類推)」とは、物事を直感的、総合的に把握して、似た本質を見つけることである。もう一方の「論理(アナリスト=分析)」とは、物事をいくつかの要素に分けて組み立てること」である。14
  • 芭蕉の俳句などもその機微を「情」で理解できる。つまり、日本人は全員が詩人の才能を持っているのである。やまと心を持った日本人とは、言葉でなく心でわかり、詩で表現し、行動で結論を見せる人のことである。そのすごさを、今こそ日本人はしっかりと認識したほうがよい。これぞまさに、日本の強さの根本部分なのだから。P17

順番は「情」「知」「意」

  • 戦前の日本では、学校教育でも「情」の教育を重んじていた。戦前の教科書を見ていると、「義理人情を兼ねそろえた人間をつくろう」という方針だったことがわかる。よく「知情意」といわれるが、当時の人たちは、子供たちには最初に「情」を教え、次に「知」を教え、最後に「意」を教えるようにしていたのである。P21

「共通の幅広い教養」があるから話が通じる

  • ギリシャの哲学者たちは、「論理的思考」と「直観的思考」の二つがあると考えた。ロジカルに人に伝えるときには、論理を積み上げていかなければならない。一方、直観的思考で伝えるときには、「たとえ話」で済む。考えたことを伝えるときには、この二つのやり方があるが、どちらの伝え方をしても、真理に到達する。P27
  • 日本人はお互いに「情」がわかるから、たとえ話ですぐに話が通じる。ロジカルに言うのが面倒くさいのではなく、たとえ話だけで十分に通じるから、ロジカルは必要ない。論理ができないわけではなく、両刀使いだ。日本の中小企業の社長には、たとえ話が上手い人が多い。聞いたほうは「なるほど」とすぐに納得する。理屈で説明されると、すぐに「なるほど」とはなりにくい。P28

なぜ「情感」を磨くと数学の問題が解けるのか

  • 普通、人が自分と思うのは小我、つまり肉体とその機能と申しましたが、もっとはっきり言いますと、自分の肉体、自分の感情、自分の意欲、それを自分と思う。それで非常に自我が強いと、人の世や自然のような大きいものは映らない。外界が伝わるのは、感覚までで止まる。欧米人は、自我が非常に強いからそうなる。(岡潔「日本民族の危機」)P35
  • ところが日本人は――明治までの日本人は特にそうですが――真我が自分だと思ってれば、もちろん、自我なんてありませんし、そうでないにしても自我は非常に弱い。それで大脳前頭葉にまで外界が伝わりうる。伝わりうる場合は、第二段階として大脳前頭葉で受け止める。そうすると、情緒になるのです。情緒というのは、時として、非常に強い印象を与える。P35

「俺が、俺が」では創造はできない

  • 岡潔さんは、西洋人は「肉体の働きが自分だ」と思っているのに対して、日本人は「心が自分だ」というのが本当だと思ってきたのだと述べ、その違いから、人間にとっての幸福や創造の秘密を解きほぐしていくのである。37

10、人が幸せそうにしているのを見ると、自分の心が喜びで満たされる。自分の心に深い喜びを感じるというのが、人本然の心であって、それがうまくいかないのは、心に濁りがあるからです。この、エゴイズムという濁りがあるからだと知って、それを取り去ることに努める。そういう人は、真我に目覚めた人と思います。P37

11、確かに「論理的思考」であれば、どこまでも「自我」からの発想ということになるが、「直観での判断」にとって重要なのは「いかに自我から離れるか」なのであろう。このあたりの機微は「情」というものの本質を考えるうえにおいて、非常に示唆に富んでいる。P41

「情の力」でこそ高レベルの仕事に到達できる

  • 現代の日本の子供たちはマンガやアニメを見て育っている。マンガには、「パトス」や「エロス」がたくさん含まれている。マンガを読みながら「パトス」と「エロス」を身につけている。ここは大きなアドバンテージである。
  • つまり、「エロス」や「パトス」が育っている人のほうが、相手の話をよく聞くようになる。心で感じるから深い理解ができて、相手と深いつながりができてくる。そして、そのようにして「情」でつながった相手だからこそ、「論理の平面」などを遥かに超えた高いレベルの仕事を成し遂げうるのである。P50
  • 「情」を理解できる日本人は、そのことを心の内なる密やかな喜びにしておいてもいいかもしれない。「情の力」は日本人にとって、大いなる優位点なのである。P52

第2章 「情」の戦略 -「知・論理」に頼らぬ日本的あり方 

  1. 「情の力」から生み出される能力に共通するのは、きわめて高度な情報把握能力と、きわめて高度な情報伝達力である。54,55
  2. かつて「情」「知」「意」の順番で教育をしていた文部省が、戦後はまったく違う教育をするようになってしまったわけだが、日本の子供たちはマンガやアニメを見て「情」を育んでいったのである。56
  3. 講談社を創設した野間清治が刊行した絵本は、紙の質も上等で絵も一流の画家の手によるものだった。ここまでこだわったのは野間の次のような思いがあったからである。「子供を愛さざればその国滅ぶ。国を興さんと欲すれば国民こぞってその子を愛せよ。子を愛するは天を敬する所以にして何ものを愛するよりも尊き行いなり。子どもを愛するの大事が教育にあるということ言うに及ばず」66
  4. 大人たちがこれだけ深い愛情をかけ、これだけの力を投入したから、日本の子供たちは「情」を存分に育んできたのだともいえる。そしてその伝統は、今もたしかに生きている。日本のアニメやマンガが世界を席捲したのは、日本が長きにわたって培ってきた文化風土が背景にあってのことなのである。67,68

第3章「情」の組織論 -情で繋がった関係性ほど強いものはない 

  1. アメリカはそもそも奴隷をこき使っていたような国である。そんな国の「使用人をこき使うための組織論」を、ろくな考えもなしに導入しても、これまで「仲間」意識で働いてきた日本の組織構成員は、心の底から納得できない。成果主義を単純に移植したような浅はかな会社は、すでに2000年前半の段階でガタガタになった。P109

実力主義の社会だからこそ「情」が大事

  1. 人間は「目新しいもの」に憧れる一方で「変化を恐れ」「惰性を守ろう」とする心も持ち合わせている。指導者が変化に飛び込んで行った場合、それに従う人たちの中には、反対したりする心が生まれてくる。そんな心のひだを的確に感じ取る力が「情」である。松下幸之助さんは、「経営で大事なことは、ことに当たってまず冷静に判断すること。それから情を添えること」と述べた。P120
  2. 「平等社会では『情』を重んじるのもいいが、格差競争社会では『非情』に徹することが大切だ」と考えている人がいたとしたら、考え違いも甚だしい。大切なことは、「仕事に厳しく」ありながら「人には優しく」あることである。P121

日本各地につくられた人情の団体

  1. 明治以降の日本では、例えば裁判においては「情理兼ね備えた裁判が良い」と言われていた。優れた裁判官とは、理だけで判決を書く裁判官ではなく、情を踏まえて、情理兼ね備えた判決を書く裁判官だ。そういう考え方で国づくりがされて、明治、大正、昭和の日本は出来上がった。常に「情」が大切にされてきた。P136

アイディアも発明も「情」と「意」からわきあがる

  1. エンジニアも、「情」を持った人の方がいい仕事をする。本田宗一郎さんが一念発起して、エンジンのピストンリング製造を志した。本田さんからすれば、いいエンジンを作りたいという目標が先にあって、勉強はその後であった。目標というのは、情」がなければ生み出せない。「情」によって目標が出てきて、「意欲」が生まれてくる。そこから発明が湧き上がってくる。P147

第4章 巨大なものに立ち向かう日本精神 ― 闘いに必要な気概と情

苦境にも日本人の使命と希望を語り続けられた昭和天皇

  • その戦争を押しとどめようと苦慮され、最終的に止めたのは天皇の大御心だった。責任はすべて私にある。文部百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。わたしの一身はどうなろうと構わない。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」このお言葉に、マッカーサーは驚愕し、胸打たれ、昭和天皇に敬意を持つようになった。p201

全国巡幸を歓呼の声で迎えた国民の「情」

2、昭和天皇は敗戦直後から日本全国を巡幸して国民を励ます、全国巡幸を始めた。GHQは天皇に危害を加える人が出るのではと想定していた。現人神といわれていた天皇が生身の姿を民衆の前にさらすのは、占領軍にとって都合のいいことだろうと考えていた。だが、実際に巡幸が始まると歓呼の声が鳴り続いた。「ああ天皇さまも犠牲者なのに、我々の事を本当にかんがえてくださっている」と、庶民たちはピンときた。天皇と庶民とは、日本の長い歴史が作り出した紐帯と数々の物語と「情」と「情」とでつながっていた。p208

3、圧巻は広島だった。原爆被害が生々しい広島に数万人集まり、君が代の大合唱の後、天皇がお言葉を述べられた。その直後、「天皇陛下万歳」の大歓声がわきあがった。これに高々と帽子を掲げつつ、丁寧に会釈で応えられる天皇。これが日本人の「情」である。アメリカはじめ、連合国はこの光景に圧倒された。日本は戦争に負けた。しかし、「情の力」で勝った。戦後、たちどころに日本が経済成長を果たし、「文明の質」において、アメリカを圧倒する存在になれたのは、このような「情の勝利」がベースにあったからこそなのである。p210

5章 近代が終わり情が復活する なぜ日本は世界にまれなる良い国か

  1. 日本はこれだけ長く歴史が続いてきた国である。連綿と続いてきた歴史の中で、経験が蓄積され、物語や言い伝えとなり、習慣となり、それは思考行動にも反映されている。江戸時代の和算や商業のあり方を見るまでもなく、論理的なこと、数値的なこと、計量的なことも高度な伝統を積み重ねてきている。一方で、人間社会には論理では片付かない隠された智慧や価値があることも知っている。p231

情愛深い日本人が求められる時代

  1. 江戸、明治、大正、昭和初期には、情緒深い日本人がたくさんいたが、戦後になると、世の中全体が成績ばかり気にするようになってしまった感がある。以前、東京都内で親が子供に言う言葉を調べた人がいる。小さい時は「早くしなさい」。小学校入学前ぐらいになると「◯◯ちゃんに負けるな」と言う言葉が1番だった。情のことよりも、スピードと成績が重視されるようになってしまった。 p243
  2. 情愛たっぷりの人間同士なら、直感的に話が通じる。「おい、あれ」と言うだけで、通じることもある。女性の部下に「あいつを呼んでくれ」と言ってしまったことがあったが、彼女は直感を働かせて、「この件だからこの人」と感じ取って適切な人を連れてきてくれたのだった。情の時代には、このような気働きや直感力こそが求められる能力になるということである。p243
  3. 情愛がない人間同士の場合は、箇条書きにして言葉で全部説明しなければいけない。だが、情の世界が復活すれば、話が通じやすくなる。そのスピードは、圧倒的であろう。242

横ばいのなかの幸せを世界が見習う

  1. ヨーロッパの近代は、合理化と効率化で、無駄に見えるものをなくしていった。しかし日本は近代になっても、無駄なものを残した。風流な暮らし、お月様や雲を友達にする暮らしがあった。日本には豊かな心の世界があった。p243
  2. 伊勢神宮に行くと、天にそびえた建築物は1つもない。川のせせらぎがあるだけだ。日本人は、これを国の中心と考えてきた。伊勢神宮は、論理的に説明する世界ではなく、感じる世界なのである。伊勢神宮の大宮司が、外国の要人を数多く伊勢の神宮に案内し、「何か深淵なるものを感じないかと問いかけたところ、多くの人が感激した・・・と言うところに情で理解してもらうことの本質がある。日本人は無理に論理にするのではなく、情で伝えるべきものは情の方法論で伝えれば良いのである。
  3. どんなことにも「ありがとうございます」と拝むことができるのは、日本人しかいない。世界の人は「何がありがたいのかわからない。変わった人たちだ」と見ている。もちろん日本人にも何がありがたいのかは、よくわからない。しかし、言葉では説明できなくても、ともかくありがたい。生きてること自体がありがたいのである。P245

脳力開発131号/理念探究会131号

脳力開発131号・戦後70年の変遷一応のまとめ

2016年1月から戦後70年を機会に、戦後史を2年半に渡り検証してきた。今年10月に「理念の時代を生きる」第二巻をまとめる計画なので、まだまだ研究を続けている、今までの研究の範囲で一応中間のまとめることにする。

■GHQの日本人の思考と精神の破壊

検証の過程でわかったことは、戦後GHQ占領の大目的は「日本人」の思考と精神の破壊計画である。戦後再び日本人が立ち上がれなくすることが大目的であった。そのために数々の施策が日本に対して実行された。その、総称が日本人に戦争に対しての罪意識扶植計画(WGIP)であった。これは作家江藤淳氏が指摘している。

  • 6年半に渡る言論統制

詳細を振り返ると、その、第一の施策が終戦から昭和27年4月28日の日本占領の終わるまで6年半に渡る言論統制があった。この言論統制の影響は非常に大きく、戦後73年目を迎えながらも今も続いている。あらゆるメディアに対しての徹底した検閲が行われた。GHQが「言論及び新聞の自由に関する覚書」を出したのは昭和20年(1945)9月10日、連合国最高司令官の指令という型式で出された。続いて9月21日「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」が指令された。

  • 30項目のプレスコード

1・SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判、2・極東国際軍事裁判批判、3・GHQ日本国憲法を起草したことに対する批判、4・検閲制度への言及、5・アメリカ合衆国への批判、6・ロシア(ソ連邦)への批判、7・英国への批判、8・朝鮮人への批判、9・中国への批判、10・その他の連合国への批判、11・連合国一般への批判(国を特定しなくとも)、12・満州における日本人取り扱いについての批判、13・連合国の戦前の政策に対する批判、14・第三次世界大戦への言及、15・冷戦に関する言及、16・戦争擁護の宣伝、17・神国日本の宣伝、18・軍国主義の宣伝、19・ナショナリズムの宣伝、20・大東亜共栄圏の宣伝、21・その他の宣伝、22・戦争犯罪人の正当化および擁護、23・占領軍兵士と日本女性との交渉、24・闇市の状況、25・占領軍軍隊に対する批判、26・飢餓の誇張、27・暴力と不穏の行動の煽動、28・虚偽の報道、29・GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30・解禁されていない報道の公表

★ブルーの部分に注目していただきたい。

  • 膨大な検閲組織

1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。上記の項目を基準に、規制された。この言論統制が6年半に近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。並行して、NHKを通じて「真相箱」などを通じて国民への罪意識扶植計画(WGIP)、日本人の洗脳作戦が続いて行ったわけです。

食うためとはいいながら唯々諾々として検閲に専念した。その後、名簿が発見され2013年11月5日NHKで放送された。

 

太平洋戦争史・東京裁判への批判禁止

  • 1945年12月8日より10回にわたって連合国司令部記述として全国の新聞紙上に掲載された。「国民は完全なる歴史を知るべきだ」「軍国主義者の行った侵略を白日に」などというGHQの趣意により宣伝占領政策の一つとして1946年4月に刊行された。これらの宣伝に対してもGHQに対する批判はプレスコードによって言論統制されたため、批判、反論、検証は許されず、国民はこの事実を知らない。
  • 極東国際裁判=東京裁判は1946年5月3日から1948年11月12日まで行われたが、既に刊行されている太平洋戦争史に添って判決が下されることになっていか。プレスコードにより、メディアは批判できない、国民は知ることが出来ない。正にGHQのシナリオどおりに日本国民が洗脳され続けたわけである。
  • 東京裁判自虐史観

戦後の進歩的文化人といわれる人達はこの東京裁判の判決を「真実である」という前提で、若い人たちを指導し教育する。またGHQにコントロールされているメディアを通じて、新聞紙上で意見を述べ、物事の判断を進めるわけである。「何をか言わんや」だ。こういう事実に対して多くの人達は知らされていないし、知りもしない人達が多い。この現状こそGHQが望んだ国民への罪意識贖罪計画(WGIP)の効果である。

 

■言論と統制・メディアに対する徹底した検閲

  • 占領軍のサクラになったマスコミ

占領軍・GHQは日本の近代史のほぼ全体を共同謀議に基づく侵略の歴史として決めつけ、極東国際軍事裁判= 東京裁判をドラマティックに演出し客観的な裁判という型式を整えた。天皇に「人間宣言」を行わせ、「神道指令」によって日本人の宗教的中枢に打撃を与え、また衆参両院で「教育勅語廃棄決議」を行わせ、加えて、厳重なマスコミ検閲を行いながら、検閲の存在自体を秘匿することによって、占領期間中に日本には自由な言論がなかった事実を隠蔽することに成功した。

  • 新聞・雑誌、ラジオなど全てのマスコミは占領軍の仕組んだ検閲によってサクラ(GHQ

のお先棒を担ぐ)の役を務めることになる。その事実は国民には秘匿されたため、日本人はサクラ(お先棒を担いだメディア・新聞、放送局)に引きずられて、占領軍が誘導した解答(太平洋戦争史・言論統制とプレスコードに添ったGHQの見方)を繰り返すようになった。正に文字通り操られることになった。

  • 占領政策の根本矛盾

1946年現行憲法第二十一条第二項には「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」と定められているが、占領政策そのものが根本的に矛盾している。神道指令で、「国家と宗教の分離」という名目で神道を抑圧排除した。こうした矛盾の上に占領軍が主張する「民主主義」の理念にしたがって、表向きは日本の主権者である日本人の自由で自発的な意志を尊重するという建前で、実は勝者の意志によって日本人の思想改造しょうとした。日本はプロパガンダについて無防備であった。

  • 公職追放と共産主義

神道指令に引き続き、公職追放によって、新聞、メディアの世界、教育界(主要大学の学長、教授などの追放と左翼学者の登用)、教職員組合による教職員の労働者への意識転換、教育勅語廃止と日本の歴史の否定、従来の教育の全否定、経済界の主要経営者の追放と、欧米型経営システムの導入、共産党員の保釈開放による左翼運動の活発化、政治の世界、共産党、社会党の指導による労働組合の凄まじい左傾化が進む。

  • 「左翼にあらずん場マスコミ人にあらず」といった時代

終戦後、当時の学者、評論家にとって岩波書店から本をだし、朝日新聞に寄稿することがステータスだった。岩波から出される「世界」は学生たちにとっても必須の読み物であった。世間は彼らを進歩的文化人と呼んだ。彼等は、資本主義に否定的で「進歩」の先にあるのはソ連や中国の共産主義であると考えていた。「日本の伝統」を進歩に対立するものとして「軽視し、保守を反動」と見なした。

例えば主要大学ではマルクス経済学にあらずんば、経済学にあらずという風潮が蔓延し、学生たちはマルクス主義、共産主義の洗礼をうけることになる。影響を受けて学生たちは、60年安保、70年安保へと巻き込まれる。運動に傾倒し、一般企業に就職できない学生たちの一部は、学者、司法、教育、公務員、労働運動等などの道に進み、活路をみいだした。

  • 戦前の日本については東京裁判史観的な視点から断罪する

日本の「伝統」を「進歩」に対立するものとして軽視し、保守を反動と見なした。日本人自らが日本に誇りを持たないというGHQの狙いどおりだった。政治的には、日本社会党、日本共産党を支持し、反自民、反米国の立場を取り、現在(2018年)に至っても現行憲法の護持、非武装中立、戦後民主主義の擁護を訴え続けている。

 

■戦後メディア・政界・文化人の実態

現在2018年になっても、東京裁判を受け入れたのだから、裁判で示された歴史観を背負っていかなければならない。メディアのみならず大半の日本人は東京裁判の自虐史観を受け入れ、その史観から逃れることが出来ない。これこそ、GHQが作り上げた言論空間に呪縛されている証といえる。メデヘアの報道を通じて「勝者による強制」という印象を薄めて、敗戦国民の自発的自己批判の形をとらせていることに積極的に加担したことになる。

  • 洗脳から抜け出せない文化人達

戦後、GHQの言論統制をうけ、その後もサンフランシスコ条約の発効によって占領が終結した後も、メディアは自からそれまでの言論統制を続けることになる。なぜならば、条約全面講和を主張し「天皇の自発的退位を願った」東大教授南原繁をはじめとして主要大学の教授たちに対して、吉田茂は「曲学阿世の徒」と名指しで批判されたが、戦後も「政府に対立する」ことが戦後大学の教授たちの使命であるという意識は今も残っている。

  • 60年安保、70年安保と二度にわたる日米安全保障条約に反対した学生運動(私は丁度この端境期に学生時代を過ごした)も実態は純朴な学生が進歩的文化人、社会党、共産党、メディアの影響をまともに受け、反対運動こそ進歩的であると金科玉条のように信じた(洗脳された)結果であった。これは平和安全法制(平成27年9月30日成立)に関して反対運動を続けた一部大学教授や進歩的文化人といわれる人達の中に残存している。勿論、国会審議をボイコットしてデモに参加したと自慢げに語る政治家も沢山いる。反対するだけで、対案を出すことのない。安保闘争当時のかつての社会党、共産党と同じ構図だ。
  • 敗戦利得に執着する人達・人間は何故そうなるのか?

終戦後の舞台に立った人達・公職追放によってリーダーの役を担った人達はその後、善きにつけ悪しきにつけ、結果として敗戦利得者となった。自分が利得者になったことも自ら意識したことでなければ、その後のGHQの数々の施策におかしいと思って抵抗するであろうか?GHQの施策に従うことにためらうことはないであろう。戦後の混乱の中にあって、自分が利得者であったと認識することは少ないであろう。

  • GHQの仕事として検閲官になった人達は、殆どの人達は自分の前歴を隠すことになる。自分は検閲に関わりましたという人はいない。この例だけではない。政界・政党・政治家、財界、教育界、労働組合、メディア(新聞・テレビ・放送局)司法界、作家、文化人等など、全ての組織はその例からもれない。

人間はそんな状況にあったとき、自己保身に陥るのは理解できるが、その後、状況が大きく変化している現在でもその既得権益・敗戦利得に執着する人達も多い。その中でも、今もなお、反日を唱えるメディア新聞・テレビ・NHK、文化人などの罪は重い。

  • 社会党、共産党、労働組合、日教組などすべてGHQの洗脳計画に添って戦後の活動をしてきた。そして今もその流れの中で動いている。その根底には戦後の敗戦利得者として自己の存在があるということだ。日本全体もその影響から逃れことはできない。GHQの影響をうけたことを思考から無意識に削除している。

 

■財界にも危惧が生まれた・正論路線=産経新聞の成り立ち

あまりにもあらわな「親中・親ソ・親北」など社会主義・共産主義に無批判な世の中の風潮、「政府の反対する」ことがあたかも進歩的であるという風潮を助長する既存のメディア対して、資本主義を守り共産主義に対抗する「親米反共」のメディアが必要であるとの認識に立って財界が期待したのが産経新聞であった。

産経新聞のルーツは日本工業新聞という戦前からある新聞だが、今日「正論路線」を掲げる産経新聞が現在の編集の輪郭を明らかにするようになったのは、1958年(昭和33年)水野成夫が社長に就任してからである。

その後、1968年(昭和43年)に鹿内信隆が社長に就任し、親米反共、自由主義・資本主義を守る姿勢を色濃く打ち出す新聞になった。鹿内は日経連(日本経営者団体連盟)の初代専務理事を経験し、「経営者は正しく、強くあれ」をスローガンにしていた。戦後10年間日本共産党に指導され各地で過激な労働争議に対処した経験をもっていた。

昭和48年、産経新聞に保守派の文化人による「正論」というオピニオン欄をつくり、進歩的文化人とそのメディアに対しての議論を挑むようになった。

 

「リベラル」とは何か・麗澤大学教授・八木秀次氏

  • 現在、「リベラル」と称し称される人々は、かつては「革新」とか「進歩派」とか称し称されるはずだ。社会党・共産党は「革新政党」。両派に近い学者・文化人は「進歩的文化人」と称され、岩波書店の『世界』や朝日新聞を舞台に論陣を取っていた。「革新」も「進歩的」も「左翼=社会主義・共産主義」の別名だった。
  • いずれは社会主義体制へ移行すると信じ、現在を批判的に見ていた。学生時代は観念的にそうあるべきだ、そこに理想の世界があると浅解していた。世界的には東西冷戦が終わり、国内では北朝鮮が日本人拉致を認めた時期から、社会主義・共産主義への幻想は打ち砕かれ、「革新」「進歩派」と称することが憚(はばか)られてきた。
  • 欧州ではLiberalの意味は「自由主義的」というくらいの意味を持つ。欧州の「リベラル」は保守主義とも親和性を持つ。米国の「リベラル」は自由よりも平等や多様性を重視する。民主党も共和党も安全保障については殆ど変わらない。
  • 日本の「リベラル」は元々の社会主義・共産主義の空想的社会主義を奉じて米国よりも社会主義国を含む近隣諸国との協調を主張する。共同体・国家よりも個人、人権を重視する。経済成長よりも福祉や配分を重視し、憲法九条改正には何があろうが反対する。「リベラル」を称する立憲民主党、国民民主党の主張の濃淡の差にすぎない。(悦司)

 

理念探究会131号・靖国神社

お盆前に靖国神社にお参りした。年六回開催される第九回「やすくに活性塾」に参加している。妻善子の父親は大正三年の生まれで、第二次世界大戦に赴任先上海で現地召集された。神戸大学をでて、伊藤忠商事に勤務していた。善子は昭和二〇年一〇月十八日に上海で誕生した。昭和二一年四月一九日帰国。その年の十二月に罹患していた善子の父は結核で亡くなった。享年三一歳だった。彦根では護国神社にお参りしていた。

靖国神社にお参りした後、靖国教場啓照館で今回の講師「日下公人氏」の講義を楽しみにしていた。靖国神社にお参りすることは、今戦争で遺族となった肉親には人間として「当たり前」のことです。

善子は著書のなかで「成人してから毎夜、自身の枕元に一人の人間が座って、その姿に金縛りにあったようになった」と術懐している。「ある時、その人は自分の父親だと気がついた。ある時は兵隊の姿で枕元にジッと座っている。結婚が決まった夜から、父と思われる人は姿を見せなくなった。その後、何か困ったことが起きたとき、お願いしても一度も姿を見せてくれない。善子にとっては紛れもない事実だ。

今年も終戦記念日が訪れた。超党派で国会議員は参拝した人達もいるが、安倍総理は個人的に玉串を奉納し、閣僚も参拝した人はいない。総理の靖国神社参拝が中国、韓国との政治問題になったのは一九七五年の三木武夫総理大臣以来顕在化し、中曽根元総理は戦後政治の総決算を掲げ、一九八四年八月「閣僚の靖国神社公式参拝に関する懇親会」を発足させ、翌一九八五年八月一五日公式参拝を実現したが、中国などが猛反発して中止した。

以後の詳細は省くが、正にこの政治判断が日本の戦後史の核心に近い問題を含んでいる。戦後GHQによるWGIP罪意識贖罪計画により日本国民は洗脳され、その最先端きって加担したメディアがこの問題も、これから問われる「憲法改正問題」に対してもGHQの判断に従うことになる。

戦後七三年経ってもいまだ、独立国としての「憲法改正」に対しても反対を唱えるメディア、大半の憲法学者、「リベラル」を自称する政党等などいる。文字通り「反日」国家のように換言すれば、中国、韓国のようにヒステリックに反発している。

しかし、世界も徐々に変化してきている。かつては連合国に対して一言も反発することのなかった外務省の責任が今日を招いたのだが、安倍総理のここ五年半の任期中一五五回に及ぶ海外訪問と外交により、日本の戦後へのGHQの東京裁判の判決に対しての疑問と日本の主張に理解がすすみつつある。

話を靖国神社に戻そう。粘り強い安倍総理の姿勢により、冒頭に書いたように靖国神社に対しての海外、日本国民の理解が変化しつつある。遺族にとって靖国神社、全国各地の護国神社は自分たちの親や子供、祖父にお参りできる場所であり、また日本国民として公式に政治家がお参りすることになんら不都合はない。人間として極めて自然なことである。今回もお参りすると、沢山の若者たち海外の人達もお参りしていた。遊就館もいっぱいの人だった。

日下公人の講演はこの日本を守ってくれた「先人たちの心とこれからの日本について」というタイトルだった。

話の骨子は「英霊は私達を待っている。自分たちが忘れられることなく、国民が生きて暮らしている姿をみたいとおもっている。」巷間、「知、情、意」と言われ、西洋はロジカルシンキングが中心、戦後はとりわけ日本でも「論理が上で直感が下」と決めつける傾向が強い。日本人の強みは何か、と考えたときいの一番に挙げるとしたらやはり「情」ではなかろうか。

「日本は天皇ご自身の『情』の存在があったからだ。昭和天皇は戦争の責任を、すべて一身に引き受けようとされ、更に国民を力強く励ましてこられた」このお姿、覚悟がわからないと、昭和天皇の『情』の深さもわからない。(日下公人)

繰り返すがGHQがやって来た戦後のWGIPは靖国神社への参拝、憲法改正、東京裁判、言論統制、神道廃止、公職追放などなど、今なお影響を与えてきたが、もう一〇年もして団塊の世代がこの世を去るときには、日本はもっと世界から尊敬される国になっていると予感している。

真摯で誠意のある対外姿勢を貫き、キチンと日本人としての振る舞いを続ければ、混乱する世界の調和役としての使命を果たすことか出来ると今年の靖国神社参拝を通じて考えた。(悦司)参考文献・日下公人「情の力で勝つ日本」


脳力開発130号/理念探究会130号

脳力開発130号・沖縄の歴史を繙く

  • 沖縄問題には中国(明・清)の歴史や、徳川時代の歴史が絡んでいます。今の沖縄問題を考える上で、一応歴史を遡って理解しておく必要があります。その上で、韓国、北朝鮮や中国との政治的な関係も理解しておいた方が客観的に考えられます。

オール沖縄いたるアナキスト運動の起源、歴史もあり、一方で、歴史的事実として日本復帰までの沖縄県民の教育やその後の日本政府の対応が、今日に至るまで、本当の意味での自立を阻害する要因になってくるわけです。

  • 話は飛ぶようですが、究極的に言って、沖縄県に対しての過剰な保護政策は長い目で見ていくと国民の依存心を助長させます。2011年の東日本大震災や福島原発に関わる支援策も功罪相半ばして、過剰な補助金が皮肉なことに浪江町出身のN本氏の知人たちが言うように「補助金でゴルフのシングルを生み、働くことをやめて家庭生活の崩壊を招く例が増えている」と先日も我が家を訪ねてくれたN本氏は嘆いていていました。彼の生家は福島第一原発の傍の、浪江町、請戸海岸の近くにあり、勿論跡形もありません。
  • 福島再建に七年間、毎月二週間も名古屋から通いながら土壌改良、農家支援など地道な復興に取り組んできました。しかし、依存心を結果として助長された福島第一原発被災地の自立支援に困難を感じ、秋からは浪江町や近隣の被災地から手を引き、会津から福島の再復興をはかるのだと、大きなプロジェクトを語ってくれました。
  • そもそも、この沖縄問題に年初かち関心を持って取り組み始めた切っ掛けになった本の書名は「沖縄を本当に愛してくれるのなら、県民にエサを与えないでください」副題が「右も左も金の亡者ばかり!深すぎるオキナワの闇」でした。
  • はなしを戻して、歴史の検証と共に中国の影響が如実に浮かび上がってきます。そして社会党の残り滓のような社民党が以外に影響力を持ち、地元の社会大衆党が触媒となり日本共産党との野党共闘を組むで、日本政府に反対し続けているのです。
  • オール沖縄は共闘が崩れ始め、年初から市長選挙では三連敗を重ね、経済界の支援団体もより左翼運動に傾いていく活動から離脱しつつあります。

経済界もしたたかで、今のままでは復興支援金が減少の一途をたどり、この体制の限界を感じはじめてオール沖縄から離脱していくのでしょう。経済界の人間もしたたかです。

  • 教育界は、永年まるで、かつての日教組のように沖縄県教職員組合も琉球大学の中核を押さえている左翼教授連中も、小学校から反日教育を続けてきたわけです。先生たちも多くが反日を唱え、まるで日本人でありながら韓国、北朝鮮、中国どうようの反日運動を続けています。いまだに日の丸・国歌反対を教えているのです。労働組合も自治労もいまだにイデオロギー闘争を続けいてるです。しっかり社民党と結びついています。時代錯誤も甚だしいとおもいますね。

今回もその歴史的な事実をもう少し検証することにします。

 

■沖縄の歴史

  • 1372年琉球王は明国に朝貢し、冊封 をうけていた。第一尚氏は12世紀から七代続き、1469年第二尚氏・尚円が即位、王城は首里に設置した。廃藩置県まで、続いた。
  • 1477年即位した尚円の子、尚真王(第二尚氏)は文官独裁国家を建設する。身分制度を設ける。刀狩り、有力士族に家禄を与え首里に住まわせ、離島住民対して地割制すなわち共産主義的な「集団農耕体制」を確立した。また、土地所有の禁止、人頭税、離島農民に対しては、本土農民の3倍重税をかした。
  • 明国は建国以来鎖国政策を取っており、冊封国には中国人を在留させ、朝貢貿易の政務を担当させた。1609年薩摩軍3000人で琉球を侵攻した。それまで、237間、明国の影響下におかれた。中国人の居留地が現在、那覇市内の久米と呼ばれていく地域だ。

★久米は14世紀以来、大陸人の居留地区で、1644年明の滅亡にともない、明人・漢民族の36姓の部族が移住してくる。※仲井真弘多、稲嶺恵一知事は36姓の子孫。現在3000人以上の県民が中国系子孫を自認している。

 

■薩摩藩との関係

  • 薩摩藩は琉球から奄美5島の支配権を奪取した。尚寧王以下100名を江戸や駿府に帯同し家康に拝謁した。島津氏琉球太守に任ぜられる。
  • 琉球は日支両属体制をとり、首里城北殿=大陸冊封使歓待用とし、南殿は薩摩藩歓待用に用いた。朝貢とセットになっている冊封使の接待はコストがかかるため、王府は薩摩藩から借金をするようになり、薩摩藩を御国元と呼称し、薩摩への依存体質を強める。明治、大正、昭和と沖縄政財界は薩摩(鹿児島)閥へ自ら傾斜していく。

 

■廃藩置県

  • 1858年、宮古島農民が薩摩藩に王府の重税を訴える。1902年(明治35年)人頭税を廃止した。
  • 1871年(明治4年)廃藩置県。鹿児島県の管轄とし、琉球の呼称は沖縄に変わる。

 

■沖縄の統治権

  • 1874年(明治7年)王府は独断で清国・北京に朝貢使を派遣する。台湾事件で日本政府は那覇から宮古島への帰途、54名が殺された。大久保利通は清国に乗り込み、琉球の日本領有の史実を上げ沖縄の統治権を認めさせている
  • 1875年(明治8年)琉球藩官吏三司官いか10名を東京招請、通達。藩王尚泰王の上京、明治年号の使用、日本法令の適用、藩内行政機構の改革、留学生10名を内地派遣する。

 

■沖縄支那党

  • 支那党は大陸帰化人で形成されている。尚順も「絶対に日本につくな」と恫喝される。

琉球藩民は支那党を牽制できなかった。

  • 1889年(明治12年)強制執行。支那党は上京を阻止しようとした。5月27日琉球王・尚泰は随員100名と上京する。
  • 支那党の抵抗・1894年(明治27年)7月25日~1895年3月。日清戦争の勝算をめぐって支那党と白党(日本党)が衝突、乱闘事件が頻発
  • 1899年(明治31年)日清戦争勝利後に、沖縄への徴兵令を施行。

かつての清国派の一部は大陸に逃亡する。大阪朝日新聞は「琉球人福州に寄食する」と清国の政府に厄介になっている県民を批判した。

 

■沖縄の共産主義の歴史的誘因

  • 1871年廃藩置県当時住民の90%は平民=農民であった。その当時沖縄では農民は8公2民であった。本土は5公5民あるいは6公4民であった。
  • 江戸時代の識字率は大英帝国では男子25%・女子12%であった。日本本土では子50%・女子25%の識字率であった。
  • 沖縄の識字率農民は一切出来ない、名前もかけない。原始共産主義体制下、自由な移動も出来ない。王国官吏の監視下におかれた。また、自然条件は農業に適さなかった。

 

■沖縄左翼運動

  • 1931年・沖縄教育労働者組合事件で当時の沖縄青年の中には、当時貧困の原因を、日本国民による差別、搾取と捉え、無政府運動、天皇制打倒を訴えた。沖縄県内で、共産主義に傾倒した教師、師範学校学生が多数検挙された。

 

沖縄教育連合・沖縄人民党

  • 1947年2月14日・沖縄教育連合会(後の沖教組)が結成された。
  • 7月20日・沖縄人民党結成・沖縄教育連合会と沖縄人民党は「日本復帰」を名目に反皇室・反米運動を煽動する。後に復帰運動は後年中国からの支援をうけたことが発覚する。
  • 1954年(昭和29年)本土では地方教育区公務員法、教育公務院特例法が制定されたが、昭和47年1973年日本復帰まで適用されず、沖縄では教職員が左翼活動の中核をになった。
  • 1971年昭和46年9月25日、沖縄出身青年4名が「天皇の戦争責任」を叫んで皇居に乱入した。

 

■沖縄人民党と日本共産党合流

  • 1973年昭和48年・沖縄人民党が日本共産党に合流する。
  • 1975年・沖縄・ひめゆりの塔に天皇陛下が皇太子の時代、美智子妃殿下とお訪ねになったとき、新左翼系過激派である沖縄開放同盟準備会知念功らの火炎瓶事件が起こった。

 

理念探究会130号

稚内久世薫嗣氏を訪ねる

一年ぶりに稚内の久世さんを訪ねた。稚内港で再会、一路ご子息の営む久世牧場を訪ねる

今年は天候不順で、牧草の借り入れは予定どおり進んでいないらしい。牧場に到着すると、数台のトラクターやコンバインが目につく。しばらくして息子亮さんが農協から帰って来た。

トラクターやそのほかの設備に付いて、値段はいくらくらいなのと不躾な質問をした。現在四十三歳の彼は二十二歳の時創業した。もうおよそ二十年近く経過したのだと、五年ほど前に、インタビューした当時の記憶をたどりながら話を聞いた。

トラクターは七百万円から壱千万円、その他器材か数万円もする。目の前の機械の群れをながめながら、数千万円もの、投資金額が頭中を駆けめぐる。昨年は近くの離農する人からたのまれた牧場を買われた。広大な牧場に白いラップで巻かれた牧草が点在する。

現在の牛の頭数を聞くとおよそ百二十頭、そして肥育牛(雄)も二十頭ほど育てている。写真で見てもらったら感じられるように、牛舎や諸々の設備をみると素人の私は一体何人の人が働くのか思うのだが、奥さんと二人、実質的には一人だという。そのための設備投資だとのことだ。

妹さんのご主人が近くで山本牧場を経経営している。昨年この牧場を訪ねたが、餌やり、搾乳、排泄物処理、掃除などなどが確かオランダのシステムを導入して奥さんとご主人とで運営されている。素人のわたしには驚くことばかりだった。

車中で牧場の継承、後継の問題について聞いてみた。亮さんは久世さんが丁度三十年ほど前に兵庫県の山奥阿闍梨(?)からこの地に引っ越してきて、牧場を始めた。当時十四歳だった亮さんは父親と学んだ牧場経営の経験をへて新規就農をし、当時で六千万円の融資契約書にサインをして始めたのだが、そのときは流石にサインするとき、指が震えていたと笑いながら話してくれた。その当時、亮さんは牧場のみを取得し、一から始めたのだ。

最近は後継者不足で離農も多いとのことで、継承は農業公社(興社)が離農する人から買い上げ、分かりやすくいうと新規就農するひとは一から始めるのだという。質問を重ねると オーストラリアやニュージランドは父親から事業継承する場合でも、その牧場の客観的な価値の評価で後継者(たとえ家族であっても)が買い取る仕組みになっている。牧場敷地、器材、牛もひっくるめて買い取る仕組みだと。その場合は新しく始める人も日本のように牛が育つまでの暮らしを営むことができる。不安感がない。但し継承する人には二年間の経験が要求されると。

久世さんいわく、新規就農の場合、牧場経営でもたとえば頭数の計画を立てるのだが、現実には二割はロスかでる。計画どおりにはいかない。途端に、経営上の問題が出てくのだと。

久世さん数年前、入植した当時の牧場は長崎からきた山路氏(長崎大学水産学部出身の変わり種)に譲ったが、二年間久世さんとともに働いて、その経験の上にゆずり受けたという。

だから、山路さんは新規就農のように計画倒れがない。

今の牧場経営にはそういう問題がネックになっているとの話だった。海外の方がそういう点では大いに進んでいると関した。

エコロベツ「自給のむら」

「自給のむら」は福島第一現原発事故で被災した子供たちの転地保養を目的として開設した。福島の子供たちを中心に、関東圏の子供たちを対象にエコロベツ「自給のむら」を二〇一六年夏から始めて今年で三年目を迎える。今回は宿泊をこの自給のむらでお世話になった。最初にお伺いしたときには、青山学院の大学生が一人いて世話をはじめた。その夏も相当数の子供たちが訪ねてきていた。久世さんは平成五年から七年までチェルノブイリの子供たちの保養を受け入れてきた体験かある。このエコロベツの「自立のむら」も実体験をベースにした保養のしくみになっている。

昨年と違って、鶏を飼いだしている。一羽の雄と一五羽の雌が買われている。有精卵の卵は、子供たちも朝食やアイスクリームづくりに使われ、また、日頃は喫茶「レティイエ」でも販売されている。近所の農家のおばさんもワザワザこちらまで買いに来るという。

加えて牛も飼い始めている。動物の世話や広い牧場や敷地を使って長い夏の日を過ごしている。

宿泊してみて感じたことは静かで、ゆったりとした空気や大地を感じながらたっぷりと眠った。この施設は人か住むことにより非常にいきいきとしてきている。ストーブ、鍋、テーブル、手製のベッドも寝心地がよい。子供たちは毎朝片づけをし、掃除をする。ここで過ごすうちに、家庭では体験できない生活のリズムやしつけなども自然お身につけるのだろう。

一度、機会をつくって、自給のむらに泊まり、久世さんの入植から現在までの三人の子供(亮氏の牧場経営、歩さんのチーズづくり、あもさんのレティエ・喫茶経営)の三人自立体験のお話を聞きしたい。子供がどのような体験を通じて、次第に自立してきたかお話ししてもらいたいと密かに感じている。

 

利尻合宿・構造改革の次ぎなるステップ

利尻での恒例の経営合宿を行った。開始して三年目を迎えている。墓石業界(石材業界)

は過渡期を迎えている。日本の墓石業界は、コストの点に着目して中国にシフトしてきた。その結果は、国内の墓石業界はここにきての人口減にともなう売上げ減を続けている。このことは近々の問題ではない。N社もこの例にもれない。

そのことを見越して一〇年以上かけて自立連帯型企業経営を進めてきた。そして他方、旧来型の組織の改革と絞り込み、そして営業部門完全自立化と事業構造の変革・五年前からの草むしり事業への進出、そして中国生産からの日本・国内生産回帰だ。

この生産の国内回帰の復興が、企業理念・「社会の互恵関係の発展に努めます。競争指向から調和指向への移行を推進し、お客様はもとより関係者からも応援される企業を目指します。そして広く社会の心価を高め、互恵社会の実現に貢献します。」

に添った今後の展開になる。

営業部門は新しい組織と統合により、ほぼ、全部門黒字化し地域によっては拡大路線を採用して三年後には安定した売上げを確保できる見通しが出来た。また、新しい販路による粗利確保も見込まれる。

草むしり事業三年先には大きな収益源になる一方、新たな情報産業とし活路を拓だろう。

この三つの柱が互いに相互作用を発揮するときに、N社は更なる理念企業として若い人たちが活躍する会社になるだろうという確信を抱いた合宿になった。(悦司)


脳力開発129号/理念探究会129号

脳力開発129号・沖縄左翼運動の変遷

その一・沖縄教組の過激な運動

国費・自費沖縄学生制度が昭和28年3月~昭和55年まで行われた。

沖縄域内で簡単な試験を行い、成績上位の順に毎年、東大、京大、九大などの旧帝大や国立大学にそれぞれ2~3人ずつ割り振られた。国費168人自費98人私立大学20人の枠があった。恩恵に良くした沖縄出身者は約5千人。沖縄の教職員は枠の拡大をはかり、政治活動(自称「日本復帰運動」)に傾倒していった。

  • 昭和30年9月琉球大学の招聘で沖縄教員の指導を担当した日本教授団30名は、教員の質を指摘し、旧師範出身と戦後教育養成所を出た教員の能力、態度を比較すると大分ギャップがあり、若い教員の居眠りさぼりがあると指摘している。
  • 琉球漁業社長で駐オランダ海軍武官を務めた渡名喜守定氏は「高校の教員の学力は東京の高校生ぐらいだ」と発言している。(水交・昭和38年3月号)

 

本土の情況・1960年6月23日、新安保条約批准、本土は安保闘争。

昭和35年4沖縄県祖国復帰協議会(教職員会と沖縄人民党=共産党が中心に組織される。当時の政界勢力図、まだ保守親米、沖縄自民党、22/29議席を占めていた

昭和37年3月19日・ケネディ大統領が沖縄は日本本土の一部であると確認する。

  • 社会党は昭和37年1月13日訪中使節団。米帝国主義は日中人民協働の敵と宣言する。社会党は極左勢力を含む左翼勢力とともに沖縄問題をことさら取り上げる。

 

教科書問題・教職員会の課題

昭和40年以降沖縄に戦力を集中。社共、総評、全学連。米軍基地完全撤去を伴う沖縄全面返還、保守政権打倒、安保破棄を目指した。

昭和41年以後・中国文化大革命の影響。旧沖縄師範卒業の管理職が戦後教育をうけた教師により監禁、自己批判をうける。

昭和42年・琉球立法院は教員の政治活動禁止教公二法の制定を提案した。反対する二万人の左翼群衆が立法院を包囲。4月24日再度審議する議場に、左翼反対派が議場乱入した。結果、法案阻止。本土では、衆議院では昭和29年3月29日設定されていた。

  • 地元マスコミは沖教組に呼応してベトナム戦争など紙面に載せる。沖縄住民に贖罪意識、反米感情を醸成する。

 

■屋良朝苗(沖教組代表)が行政府主席に当選・米軍基地全面撤去を主張

  • 昭和43年11月10日、初の行政府主席公選で左翼共闘代表・沖教組代表、屋良朝苗が当選した。米軍基地全面撤去、即時無条件返還を主張。
  • 住民の心理は43年11月の県会議員選挙で自民党18議席、人民党=共産党14議席。

 

沖縄渡航審査が琉球政府に委嘱された結果、過激派の流入が激しくなる

  • 沖教組、労組、左翼学生=復帰協による破壊活動、基地従業員(全軍労)ストが頻繁に起こった。本土、沖縄渡航審査が米国より琉球政府に委嘱した。結果、過激派が沖縄に続々と移動した。
  • 昭和46年・今までの教職員会を解散した。新たに、沖縄県教員職員組合= 沖教組を結成。国旗掲揚、国家斉唱運動を推進していた保守派追放、皇室批判、文部省唱歌禁止。順来の日本の道徳、文化の否定し、日本軍軍人の県民自決の強要、加害行為(虚偽)を流布した。
  • 沖縄では教職員が政治運動に偏重し、教育現場後輩学力低下、非行が多発した。平和教育は破壊活動を目的とした一種の革命教育を行っている。
  • 昭和46年・琉球政府厚生局、精神衛生協会が、本土派遣の医師に学生運動前科、左翼煽動的医師がいると指摘した。
  • 沖教組は復帰後も国旗掲揚、国家斉唱に反対し、卒業式でこれを実行しょうとする校長(旧師範学校出身者)を激しく攻撃し、校長室に監禁、自己批判辞職を迫った。

 

地元財界復帰反対47年5月15日、沖縄本土復帰地元財界・一国二制度の既得権に固執、復帰反対した。

 

日本政府の融和策(政府の対応が今の沖縄の甘えを招くことになる)

  • 上述の国費・自費沖縄学生制度が昭和28年3月~昭和55年まで行われた。
  • 大蔵省・都銀、県外地銀の沖縄出店禁止。
  • 法務省・46年3月沖縄の弁護士資格に対する特別措置法をとり、復帰前琉球政府法務局職員、弁護士事務所事務員2年以上に日本弁護士資格を付与した。167名の弁護士誕生。正式に司法試験に合格したものは16名。
  • 総務省・県市町村が行う公共工事の負担部分を特例で政府が95%負担。本土は50%。
  • 労働省・サトウキビ、パイナップル収穫時の台湾、韓国からの季節労働者受け入れ暫定処置をとり、地元企業の法人税減免処置をとり、復帰から平成10年まで9兆2415億円の振興開発費を投下した。

 

その二・オール沖縄の実態と変化

先月号で、そもそも普天間基地問題から順次稲嶺恵一知事、仲井真弘多知事、翁長雄志知事の政治姿勢を分析してみた。二〇一四年平成二十六年の知事選で、オール沖縄が組織され、今日に至っている。そのオール沖縄の実態を整理しておく。

「オール沖縄」は、二〇一四年沖縄県知事選挙において辺野古移設反対派の翁長雄志を支援する枠組みとして具体化した。戦後初めて革新勢力に加え辺野古移設反対派の保守勢力(翁長は元自民党である)も参加した統一戦線が結成された。

  • 参加組織社会民主党日本共産党沖縄社会大衆党自由党・民進党沖縄県連・那覇市議会新風会・沖縄県議会おきなわ(旧称「県民ネット」)などの政党・会派が参加している。
  • 社民党は一九九六年一月、日本社会党から社会民主党と改称した。かつて社会党は土井たか子を委員長に一三九名の国会議員を擁した時期もあった。現在は沖縄二区の照屋寛徳氏と北九州ブロックの吉川元氏が議席を維持し、参議院議員は又市征治、福島瑞穂を抱えるたった四名の国会議員の党に落ちこんでいる。福島瑞穂は普天間基地の国外移転主張
  • 沖縄平和運動センターへの献金と社民党が大半であり、資金提供をしている。二七年度四七〇〇万の内福島瑞穂名義で一三〇〇万円寄付、他に自治労他が献金している。

 

山城博治・沖縄平和運動センター事務局長(社民党との関係)

二〇一〇年第二十二回参議院議員沖縄県選挙区社民党沖縄社会大衆党推薦で立候補。二〇一三年の第二十三回参議院議員比例区に社民党から立候補し党の獲得議席数が一に留まり落選。

  • 沖縄県関係職員連合労働組合(自治労沖縄県職労)副委員長を経て、二〇〇四年より沖縄平和運動センター事務局長。辺野古新基地や東村高江ヘリパッドの建設反対運動などに取り組み逮捕される。
  • センターの支援組織・社会民主党自治労国公労沖縄県教職員組合高等学校教職員組合沖縄社会大衆党等が名前を連ねる。 官公労共済会館に連絡先を置いており、闘争目標として護憲、反基地、反安保、反自衛隊および反核、原水禁、被爆者支援などを掲げる。
  • センターの幹部役員・山城博治 社民党、副議長・比嘉京子 沖縄社会大衆党、副議長・仲村未央 社民党、副議長・福元勇司 高教組。

 

■山城博治の有罪判決

2018年3月14日、那覇地裁から懲役2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡された。辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前にコンクリートブロックを積み上げて工事資材の搬入を阻んだ威力業務妨害や、沖縄防衛局職員の腕をつかんで約2週間のけがを負わせた公務執行妨害と傷害、有刺鉄線を許可なく切断した器物損壊など全ての罪で有罪とされた。

琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会』代表運営委員の我那覇真子は、山城について、被害者のふりをした加害者であると主張し、また「人権と表現の自由を脅かしている張本人」であると主張し、山城の「日本政府が表現の自由を侵害している」とする主張について「刑事被告人である彼が渡航を許可され、国際組織で話すことが許されていること自体が、日本で人権と表現の自由が尊重されていることを証明している」と反論している。

 

  • 沖縄社会大衆党糸数慶子参議院議員。

一九五〇年一〇月結成された。当初は保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。その後、革新色を強めている。沖縄社会大衆党は、旧民主党・社民党・共産党と各種選挙で協力している。沖縄で限定的ながら社共共闘が生き残っているのは沖縄社会大衆党の力が大きい。

  • 日本共産党、沖縄一区で赤嶺政賢氏。天皇制の廃止をめざす立場をとり、安保反対と米軍の軍事基地撤退、自衛隊の縮小廃止の立場をとる。野党共闘を組むことによる、長期的に共産党の躍進を狙う。

志位委員長の年初の決意「沖縄の政治戦――2月の名護市長選挙、8月の沖縄県統一地方選挙、11月の県知事選挙で必ず勝利をかちとることであります。新基地建設反対を貫く名護市長と県知事がいるかぎり、辺野古新基地は絶対につくることはできないということです。県知事や名護市長の許可がなければ工事を進めることはできません。まずは大激戦となっている2月の名護市長選挙で、稲嶺進市長の勝利をかちとるために、「オール沖縄」の共同を広げるとともに、全国のあらゆる力を総結集することを強くよびかけるものであります。」

現在、名護市、石垣市、沖縄市核市長選挙で、オール沖縄は三連敗である

 

■オール沖縄支援経済団体・業界団体の離脱

金秀グループ 、かりゆしグループオキハム(沖縄ハム総合食品株式会社)

  • 金秀グループ・二〇一八年三月脱退、名護市選挙後、金秀グループ呉屋守将会長はオール沖縄会議が革新色が濃くなっていることに不満を持ち、敗北の責任を取るとしてオール沖縄会議の共同代表を辞任した。オール沖縄会議にとっては、沖縄県経済界の重鎮である呉屋の代表辞任で組織の在り方が問われることになった。
  • かりゆしグループ・二〇一八年四月脱退、かりゆしグループは那覇市で記者会見を開き、辺野古移設の賛否を問う県民投票をするようオール沖縄会議内で提案したが、受け入れられなかったことも脱会の理由に挙げ、オール沖縄会議から脱会すると表明した。「政党色が強くなりすぎた。独自で翁長氏再選に向けて動きたい」として同会議とは一定の距離を置きつつ支援を継続する意向を示した。(悦司)

 

理念探究会129号

第18回理念型企業快労祭・理念実践報告

理念型企業が一年ぶりに高崎に集合した。若手の経営者が中心の会に昨年から変わってきた。企業理念を制定して十八年目を筆頭に三年目を迎える企業五社を含めて十二社の企業が集まった。

  • 世界の情況

現在、世界は大変革の時代を迎えている。一般の人達は、「世の中は競争だ」という前提から考える競争型社会、言い換えれば覇道型社会だという認識だ。私達が目指している企業は企業理念を中核において経営する。理念経営だ。

世の中では競争を前提にした覇道型経営=競争型経営は競争に勝ち抜く事をめざす。究極は独占支配で一社が残り、他社が敗北することだ。

世界の情況を見回してみると、中国の猛烈な台頭と武力、軍事力を背景にした世界覇権をめざしながら、アメリカとの対立を先鋭化させている。G7を中心とした先進国も今は経済的な力はかつてほどない。加えて欧州=EUはイギリスの離脱やEU中核であったドイツもご承知のように、シリア問題から生じた難民問題でメルケル首相も連立政権を組むに汲々としている。

  • 二十五年の欧州旅行の体験

私は五〇才から毎年五月~六月にかけて二十五年にわたってヨーロッパを旅している。五月二十三日から二週間ほどイギリス湖水地方とウィーンを旅してきた。昨年はスペイン、マドリッド、マヨルカ島、バルセロナそして湖水地方に旅したのだが、湖水地方の入り口、マンチェスター、マヨルカ島、バルセロナと続けてテロがあった。

ここ数年は肌で感じる欧州の、特に都心部になると非常に危険で不安感が漂っている。振り返ってみると二〇一二年にフランス、パリを訪ねた。ドイツの自動車関連の企業の経営を任されていた高野氏(六十代)に会う為に。その時、彼からパリでは「近づいてくる人がいたら逃げろ」と示唆されたことがある。過去に訪ねた経験から、そんなことはないだろうと思ったが、肌の色の褐色な大柄の男たちがペットボトルを足下において一本一ユーロぐらいで(?)で売っている。また、パリの駅裏では人糞が、地下鉄では尿の悪臭が漂っていた。

  • 文化・女性の衰退

加えて女性社員が全く仕事をしなくなって困っているという話を聞いた。女性の仕事に対しての怠慢は随所で体験した。例えば、パリ空港でのトランジェントの受け付けカウンターで、十二時になると受け付けの女性は、長く並んだお客様を無視して、受け付けを中止する。「何故中止するのか」と私が声を強めると、トイレに行くという。「いい加減にしろ」と声を荒らげると当の本人はサッサと席を立ち、あわてて男性職員がとんできて、業務を継続する。

同じようなことが、モネのジュベルニーの売店でもあった。時間が来ると自分の仕事は終わったと、平気で席を立つ。後は知らぬ存ぜぬだと。また、フランス、イタリア、スペインなど美術館ではスリにとくに気をつけなくてはならない。元々スリが多いのは以前からだが、二~三年前も今回もスリの被害に遇いかけた。

今回改めてEUにおけるイギリスの特異性を感じた。イギリスはEUでありながら使用貨幣はポンド、ユーロをポンドにホテルでも、お店でも換金してくれない。クレジットカードが通じるところは問題ないが、たまたまどうしても、手持ちのボントが足らないことがあった。時間もない、ポンドの持ち金が足らないときの対応で、小さなトラブルにあった。

私に言わせればEUでありながら、発足当時からボンドしか通じない制度なんて、最初からおかしい話だ。だから、イギリス人はロンドンからユーロスターに乗って、フランスに入国し買い物に行くという珍事が常態化する。

  • センス・フアッションの魅力

ヨーロッパは、十数年前までは、全てにわたって魅力溢れる部分を沢山もっていた。女性のフアッションしかり、美術館の豊かさしかり、音楽関係の世界の広さ、深さしかり、センスの良さは流石に洗練されていると感じるものをもっていた。ところがどうだ、近頃は、正直に女性は全くセンスがない、小汚いTシャツや若い女性のだらしのない服装をして、おまけに相撲取りの小錦なみの体軀の女性が溢れている。肥満の白人女性にはヘキヘキする。

かつてのように街を歩いている時、振り返るようなセンスのよい女性に出会うことは少ない。またスタイルのよい女性は、せいぜい中学生か高校生までの年齢に見える女の子しかいない。アメリカもそうだったが、国力、経済力が衰えると女性はデブ化するという、少々乱暴な言葉を吐きたくなる。

また、以前は街を歩いていて、危険と感じることはほとんどなかった。イギリスで仕事をしていた友人を訪ねてた時もイギリス人の気品、親切さも大いに感じていた。流石にイギリスの文化は際立っていると思ったものだが、今ではロンドンあたりは風紀もみだれて、私達は極力近づかないようにしている。ヨーロッパの文化の粋は崩壊したのかとさえ言いたくなる。今回の旅でもう魅力も好奇心も感じなくなった。

  • 覇道型経営=競争型経営の次ぎに来るもの

話を戻すが、ヨーロッパの都心部は危険極まりないのが実状だ。グローバリズムの限界は既に露呈しているが、欧米では次ぎなる競争型経営を越える世界は見えない。このことは日本の経済界でも同様だ。今、覇道型経営=競争型経営の限界を迎えているという現実が明らかになる。

私達のめざす理念を中核に置く経営とは和道経営といい、競争から調和の経営をめざす。自分たちの企業は社員、取引先、お客様、同業者をふくめて諸方互恵の関係を築き、自社の特長商品を磨き、特異貢献をめざす経営といってよい。

一般の人から見れば理想のように見えるかもしれないが、企業理念(社志・経営姿勢・就業姿勢)を掲げ、全社員が自立した職業人として研鑽を無限に続けるわけだが、簡単には到達できない。しかし、理念、たとえれば理念=北極星を目指して日々、快労(人は苦労と言う)を楽しみながら、自社の特長を磨き上げることが、仕事そのものだから、今の現実は決して辛いものではない。次々と訪れる試練が経営者を育てる。

  • 若手の挑戦・協働自立・ブランドイメージの確立

若手の経営者の発表は何れも理念を背景にした新しい挑戦の具体的な発表だった。彼らを中心に私は茨城と岡山で理念実践会を続けている。今年で三年目を迎える。彼らは理念が制定してから、自己の利益から他者・社の利益をはかることに果敢に取り組んでいる。その背景に理念がある。

理念を制定して十年以上たった企業経営者は、理念を進化・深化させ、K社長は理念の実践を「地域の協働自立」という点において続けている。正に地域が変化してきた。そして今年から協働自立の背景になる「和道」を伝えて、和道経営の出来る地域の若手経営者を育てていきたいという。「そうじの力」のK氏は自立連帯型経営を推進してきた。そして、メンバーの独立と共に、十年目を迎える。そうじの本質を問い直し「ブランドイメージの確立」と」「組織変革のプロデュース」という概念を深化させていく構想を発表した。

  • 「日本流経営」

また理念を制定して丁度十八年を迎えてS氏は「日本流経営」を指導すると宣言された。言い換えると、正に競争型の経営から互恵共栄の日本流経営・取引先、お客様、働く社員はもとより同業者にも喜ばれる経営だ。その土台に科学性=論理性=合理性を備えた上に「日本人の特長、長所である情」の伴う経営だ。日本流経営の根本に、理念型経営と正しい日本の歴史、国際平和をおいている。

  • 構造改革の実践

N社は二〇〇四年に制定した企業理念を背景に、第二回目の企業改革に三年前から取り組み始めている。構造改革を中心とするが、それは業態転換のチャレンジでもある。口で言うほど容易ではない。経営者自身の脱皮が要求される。企業は青年のように脱皮を続けなくてはいけない。経営者も歳を重ねる。脱皮はいっそう容易ではなくなる。しかし、N氏は決心を固め、腹を括って踏み出した。三期振りの黒字決算をなし遂げた。構造改革が正に競争社会から調和社会の転換を促進させ、地域貢献が可能な体制にまで変革してきた。その実践はS氏とN社長の一体となった行動で進んでいる。

  • 理念実践の生涯

鯖江で理念探究探究会やMKD主催しているM氏も職場卒業式を実践したT氏も今回参加できなかったが、理念に添って生きている。私が彼らに代わって報告した。私は二年先には三名の新しい理念制定者を誕生させる計画と、理念制定者の理念実践力(現実と和道の統合)の向上を応援し続けていく。七月には七十五才を迎える。生涯、理念のある人生の実践者として現役で生きる決心を新たにした。(悦司)